キム監督のアウトサイダー人生とは=ベネチア映画祭

自称「劣等感を食って大きくなった怪物」
韓国では異端児、海外ではスター
授賞式は「カジュアル韓服」に古靴

 9日(韓国時間)、イタリア・ベネチアのリド島にあるサラグランデ劇場で行われたベネチア国際映画祭授賞式。金獅子賞を受賞しステージに上がったキム・ギドク監督(51)はカジュアル・スタイルにアレンジされた「改良韓服」を着て、古い靴を履いていた。靴の右底は破れ、かかとの部分は普段からつぶして履いているためか折れていた。タキシードを着ているベネチア・ビエンナーレのパオロ・バラッタ代表と並んで立つと、茶色のカジュアル韓服はいっそう古ぼけて見えた。キム監督は今も山の中で、トイレもきちんとした台所もない粗末な小屋を建てて暮らし、冬は室内にテントを張って寒さをしのいでいるという。

 このような「野人気質」を隠すことなく暮らしているキム監督。正式な学歴は中学校卒業ということでも知られている。1960年に慶尚北道奉化郡で生まれ、家計の苦しさから普通の中学校でなく農業専修学校に通った。卒業後はソウルの九老工業団地や清渓川一帯の工場で働いた。生い立ちを語ることを極度に嫌うが、テレビ番組に先日出演した時は自身のことを「劣等感を食って大きくなった怪物」と表現した。

 キム監督は一時、聖職者を目指した時があったそうだ。授賞式直前にAFP通信とのインタビューで「『ピエタ』は『サマリア』(2004年)、『アーメン』(11年)とともに、若いころ聖職者になりたいと思っていた熱い気持ちを表現した3部作の一つ。聖職者になろうとしたが、そのための勉強を最後まで終えることができなかったため、今はその代わりに映画監督としてそれを実現させようとしている」と語った。実際、キム監督は20歳のとき海兵隊に入隊、5年間副士官として服務した後に入学したのが総会神学校の神学院だった。だが、その同じころに始めた絵に対する興味の方が強くなり渡仏、肖像画描きで生計を立てながら絵を学んだ。

 キム監督と映画の縁はフランスで始まった。32歳だった1992年にフランスで米映画『羊たちの沈黙』(91年)や仏映画『ポンヌフの恋人』(同)を見て「映画をやろう」と決心する。この2作品はキム監督にとって「生まれて初めての映画経験」だったそうだ。そうしてすぐに韓国に戻って映画の脚本を書き、96年に映画『鰐~ワニ~』で監督デビューを果たした。 2000年には長編『リアル・フィクション』の撮影を1日で終え話題を集めた。04年には『サマリア』でベルリン映画祭、『うつせみ』でベネチア映画祭と相次いで監督賞を受賞、「国際的なスター監督」になった。

 キム監督は08年に突然、隠遁(いんとん)生活を始め世界を驚かせた。『映画は映画だ』(08年)の脚本を一緒に書いた弟子のチャン・フン監督が大手映画投資・配給会社と提携して離れていき、『悲夢』(同)で女優イ・ナヨンが首をつり自殺するシーンを撮影したときに本当に死にそうになったという出来事があり、それに衝撃を受けて決断したといわれている。監督自身、後に「映画の本質についてもう一度考えてみたいと思い、自粛する時間を設けた」と話している。

 昨年は自身を撮影対象にした「セルフ・ドキュメンタリー」の『アリラン』で再び映画界に波紋を投げ掛けた。キム監督はこの作品で「資本主義の誘惑に陥った」としてチャン・フン監督を実名で批判した。また「映画祭で賞を取ったら勲章(宝冠文化勲章)もくれた。映画を見て賞をくれたのだろうか」と政府も批判した。

 そんなキム監督だが、今月初め『ピエタ』公開をきっかけにテレビ番組に出演した際は「親しみやすさ」を見せ、再び話題の中心になった。先日の記者会見では「この3-4年間隠とん生活をして、過去の出来事や状況、人物について取り立てて語る必要はないということを悟った」と語った。

李永民(イ・ヨンミン)記者
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