彼は国立民俗博物館の生き証人だ。
1968年、国立民俗博物館の前身、韓国民俗博物館初の学芸研究士(学術的業務を担当する専門職員)になり、その後35年間の公職生活のうち満20年3カ月を国立民俗博物館だけで過ごした。
1986~1994年に続いて1998年から最近まで、国立民俗博館の館長を務めた。
“階級”が強調される公務員社会で、自分が以前に務めた職務を昇進もせずにまた務めることになれば、大概は「一杯食わされた」と思うはずだ。
しかし、彼はものともしなかった。国立民俗博物館を愛しているからだ。民俗学界は彼が国立民俗博館の館長として引退するはずだと信じていた。
そのため彼が15日付けで扶余(プヨ)の韓国伝統文化学校の総長(次官級扱い)に就任することが決まったという知らせを耳にした人々は、「祝いたいが国立民俗博物館と民俗学界の発展を考えると惜しい」と口を揃えた。
民俗学者の李鐘哲(イ・ジョンチョル/59)氏。館長として最後の勤務となった14日の日曜日も、景福宮(キョンボックン)内にある国立民俗博物館のあちこちを見回り、観客に説明などをしていた。
「博物館が学術研究の中心ではなければなりませんが、大衆に楽しい場所であるという印象も与えなければなりません。観客のいない博物館に何の意味がありますか」
皮で剃刀の刃を研いでいた1960~70年代頃の町の床屋を宮廷の中にある博物館前の庭に再現したことも、弁士による無声映画の上映を行ったことも「民俗を大袈裟な概念で説明するよりは、大衆に近い日常の風景で見せた方が良い」という持論のためだった。
そのお陰で国立民俗博物館は一日に平均約1万2000人が訪れ、クリントン前米国大統領など、韓国を訪問した海外の要人や著名人が必ず立ち寄る場所となった。
李鐘哲氏はソウル大学考古人類学科の2期生(1962年入学)だ。「出世するためには考古学や美術史を学ばなければならない」といった時代に彼は「物凄い速度で移り変わって行く社会でも、世の中の中心は常に庶民の文化にある」という信念で、民俗研究の世界に飛び込んだ。
「悔いがないと言えば嘘になりますね。韓国の文化や韓国古来のものを“葉銭(ヨプチョン/古い真鍮のコイン)”と嘲っていた時期、国宝や宝物、史跡などはそれでも高尚に思われましたが、“○○ノリ(民俗遊び)”や“○○グッ(巫俗信仰の儀式)”と呼ばれる“民俗”には、誰も見向きもしませんでした。自分の足の置き場さえ、自分で作って行かねばならなかった。苦労や悲しみも多かったですね」
辛い環境の中で“民俗の生存”という切迫した使命意識をもって働いた所為だろうか。李鐘哲氏は頑固な仕事ぶりで有名になった。一例に、国立全州(ジョンジュ)博物館長として勤めていた頃のことだ。観客教育などのために社会教育館の新築が必要だったが、予算を担当している中央部処の関係者は、あまり気乗りのしない様子だった。
予算担当者が毎朝出勤する前、健康のためにテニスをやっているという噂を聞き、上京した李鐘哲氏は、早朝から担当者の家の前で待っていたという。
担当者がテニスを終えたところで、彼は500ウォンのオレンジ缶ジュースを勧めながら博物館の苦しい事情を説明した。もちろん、同年社会教育館新築予算の編成に成功した。
そんな頑固とした態度のために、国立民俗博物館で彼は“ナカムリ”と呼ばれた。日帝時代の厳しい特高刑事の代名詞“ナカムラ”の“ナカ”と、“無理なほど仕事をする”から“ムリ”を合わせた造語で、それこそ自分だけでなく、職員にまで厳しく仕事をさせていたという意味だ。
「切迫した状況では、0.1%でも可能性がある場所に走って行くべきです」
その結果として、李鐘哲氏が国立民俗博物館長に再任された1998年当時の学芸職員は15人だったが、今では40余人に達している。遺物購入費も年平均2億ウォン未満から37億余ウォンと、18倍も増えた。
「龍山(ヨンサン)に新築している龍山国立中央博物館の周辺に、国立民俗博物館を拡大改編した国立民俗歴史博物館を建て、『博物館ポリス』を形成したかったが…。後輩らが引き継いで行くでしょう。拍手を受けられる時に去らねばなりません」
「夫餘(プヨ)の韓国伝統文化学校を文化財最高の 匠人 、“マエストロ”を育てるメッカとして作り上げるために、尽力を注ぎたいと思います。チャンスン(村や寺院の入口に立っている木や石で作られた神像)や韓国の性文化などについての研究も併行するつもりです」
李鐘哲氏は依然、仕事と研究に“飢えて”いた。