彗星に心奪われ「市民天文台」作った建築学科教授

 「35年前に偶然見た一つの星が人生を変えました」

 江原(カンウォン)道・寧越(ヨンウォル)郡にある世京(セギョン)大学の李大岩(イ・デアム/48/建築デザイン学科)副学長は建築家だ。しかし、誰もが彼のことを「天文台長」だと思っている。

 アマチュア天文家の李教授は、寧越郡を説得して「市民天文台」を作り、自ら名誉天文台長に名乗り出た。この天文台は寧越住民たちの名所になった。

 李教授が何の縁もない寧越郡に住む理由もやはり、「星が良く見えるから」だ。はたから見れば執着に近い星との縁は、中学校1年生だった68年にさかのぼる。

 「父が双眼鏡を買ってきてくれたのですが、とても不思議で、山や野原を眺めていました。ある日、夜空に浮かぶ星を眺めていると、突然何かが横切ったんです」

 それは彗星だった。流れるような動き、夜空に赤黄色く描かれた美しい軌跡に、思春期の李教授はすっかり心を奪われてしまった。きらびやかな彗星の輝きを忘れることができなかった当時の李教授は、翌日から図書館で天文学書を読み漁った。日本語の本がほとんどだったが、独学で日本語を学びながら読破した。

 大学入試が近付くと、専攻も天文学にするかどうか、真剣に悩んだ。苦悩の末に「趣味を仕事にしてはいけない」という考えから、アマチュアでいることに決心した。

 両親の勧めで建築を専攻した後にも、星に対する愛情は変わりなかった。「天文学を職業にすれば、私が見たい宇宙を思うがままに見られなかったはずです。そうした意味ではアマチュアがずっと有利です」

 大学在学中にガラス、ギアなどのパーツを調逹して自分で望遠鏡を作り、さまざまな天文サークルに欠かさず参加した。1979年に行われた「第1回韓日天文交流会」では、訪韓した日本のアマチュア天文学会の関係者の案内役を務めた。

 「当時はアマチュア天文学会の活動が活発ではありませんでした。夜通し酒を酌み交わしながら天文学の流れや知識を学びましたが、本当にためになりました」

 そんな李教授が印象を受けたという人物が、東亜天文学会の佐藤健(75)理事(当時国鉄広島課長)だった。後に広島こども文化科学館の館長を務めた佐藤理事は、帰国後も李教授と連絡を取り合った。

 85年は李教授にとって歴史的な年だった。佐藤理事の援助でタカハシ社の「エプシロン160」望遠鏡を初めて購入したのだ。李教授は大宇(テウ)グループの海外現場で働いた賃金400万ウォンすべてを佐藤理事に送った。

 「年をとった母親が『家一軒分のお金を…』とこぼしていました。でも望遠鏡が届いた時の嬉しさといったら、言い表せないほどでした」

 最先端の望遠鏡を購入後、李教授には予想外の「冒険」が続いた。

 「彗星を見るため烏山(オサン)に行ったら、スパイと間違われて警察の世話になったり、腎臓結石の手術を受けた翌日、星が見たくて病院を抜け出し、医師や家族をビックリさせるなど、自分で考えても星に狂ったとしか思えませんでしたね」

 そして94年、星がきれいなことで有名な江原道・寧越郡の世明大学の教授に招かれた。わざわざソウルに引っ越す人が多い中、李教授は大企業の重役のポストを捨てて、すぐに寧越に引っ越した。

 家の立地条件は無条件で「星がよく見える場所」だった。おかげで、海抜700メートルの自宅は、共同墓地2カ所を通り過ぎてようやくたどり着く。

 寧越の人間になった李教授は、市民天文台を設計したほか、もう一つの趣味である昆虫採集を通じ、昨年5月、廃校になったムンポ小学校に3000点あまりの昆虫を展示する昆虫博物館も開いた。どちらも月に数万人が訪れる名所となった。

 先月、李教授の星に対する情熱が、小さな成果を挙げた。

 94年、日本の東亜天文学会が発見した小惑星「ナンバー7602」が「イデアム(YIDAEAM)」と命名されたのだ。李教授の星への愛情が、日本のアマチュア天文家を感動させたのだった。

 李教授は、「あとは子供の頃に見た彗星を、もうひとつ発見するのが唯一の願い」と語った。

 李教授は今でも毎晩欠かさず自宅の屋上に作ったミニ天文台で星を眺めるという。

 「プロも重要ですが、アマチュアができることもたくさんあります。

熱意あるアマチュアが団結し、日本に追いつきたいですね」

白承宰(ペク・スンジェ)記者
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