編み物でチェーン店までオープンした編み物専門家兄弟

 「男が編み物をするからって何か問題ですか?料理もヘアカットも男が最高の世の中なのに。手芸分野では私たちが最高です!」

 釜山(プサン)方言がきつく、男らしい印象のチョン・ムン(37)、チョン・ヒョンホ(34)兄弟。しかし、二人は代を受け継いで編み物をする男らしく、編み物に対して正々堂々と愛情を表現した。

 チョンさん兄弟は、釜山で編み物の名人として知られる母親の後を継ぎ、直接、編み物をしている。それどころか、編物を「ファミリービジネス」として育てている。

 兄のムンホさんは「糸の種類によって違いはあるが、普通は細かく編んでこそきれいに仕上がる」としながら、「男は握力があるから機械編みのように編める」と“男性優越論”を展開した。ムンホさんは「男が繊細でないというのも偏見」としながら、「ヨーロッパでは多くの男が編み物をしている」と紹介した。

 二人は映画を観る時も明洞(ミョンドン)でお茶をする時も、編み物のことで頭が一杯だという。

 「ニットを着た人を見ると『こう編めばきれいだろうに』、『他の方法で編めばどうか』など、しきりに考えてしまいます」

 二人は新しいデザインの開発のために、フランス、イタリアなどからファッション雑誌を取り寄せ、さまざまなインスピレーションを得ている。

 二人は1994年から「勿忘草手芸」という名前の手芸店を構え、全国にチェーン展開までしているが、初めからこの道に進もうと思ったわけではなかった。

 「男が編み物なんてしたら、死ぬほど恥ずかしいと思った」と言うムンホさんは、大雑把で保守的な男性だった。釜山市の大学の野球選手だった彼は、1989年に列車事故で左膝から下を失った。客車の連結部分を通った際に急ブレーキがかかり、車外に投げ出されてしまったのだ。

 「いつも外にいたような奴がじっとしていられるはずがありませんでした」。宝石鑑定も学び、コンピューターの資格にも挑戦したが、何をやっても上手くいかなかった。

 釜山で40年以上も編み物で名を馳せている母親は「知り合いのいない所で一からまたやり直そう」と、気落ちした息子の手を引っ張ってソウルに向かった。ムンホさんはソウルでも、母親の店で新聞やマンガ本を見て過ごす日々が続いた。

 新しい人生が本格的に始まったのは1995年の夏。「舞台衣裳を作りたいという50過ぎの男性が編み物を学びに来たんです。『俺は金まで払って学ぶのに、若いのが何で遊んでばかりいるんだ』と言う言葉に赤面しました」

 ムンホさんは母親の隣に座って基礎から教えてくれと頼み、野球のボールを手にしていた大きくごつごつとした手でかばんを編み始めた。綱ほどの太さの糸で編んだかばんは直ぐに売れ、これをきっかけに感覚をつかみ始めた。

 「男性が作ったと言うと、返ってよく売れました。編み物に夢中になって毎晩夜なべをしていたら、母に止められたこともありました」

 ムンホさんの友人たちは、6年ぶりに何かを始めたと聞くと、「よく決心した」と励ました。ムンホさんは今やカルチャーセンターの講師を教えるほどの「編み物の達人」になった。

 弟のヒョンホさんは大学卒業後、インテリア会社に就職したが、通貨危機で会社が倒産し、兄と同じ道に進んだ。ヒョンホさんはムンホさんと違って小さいころから手先が器用で、編み物もすぐに上達し、大学時代には手芸店を運営したこともあったという。

 「兄は棒針で服を編むのが好きですが、私はかぎ針で帽子など小物を編むのが好きです。かぎ針で編んだものは少し固いですが、かわいらしく華やかな味わいがあります」。兄には持久力ではかなわないが、編み物の腕はヒョンホさんの方がいいと母は評価しているそうだ。

 言葉では「酒を酌み交わす時だけ仲がいい」と言っているが、兄弟は互いに助け合っている。ヒョンホさんが合流したため店をフランチャイズ展開し、現在、釜山、済州(チェジュ)など全国50店舗に拡大した。

 受講生の管理と支店契約をムンホさんが、支店管理と物品供給をヒョンホさんが担当している。

 今年12月には2年間準備してきた手編みブランドを出仕する予定だ。ムンホさんは「ニットひとつが数十万ウォンもするでしょうが、『自分だけが着ることができる、世界でたった一つの服』という点が消費者にアピールできるのでは」と自信を見せた。

 「この世の中、男女の役割が決まっているわけではないでしょう?他人の目を気にすることはありません。

努力をすれば道は拓けると思います」

朱裕麟(チュ・ユイム)記者
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