ヒラリー・クリントン(56)上院議員は自らの人生を“歴史”と名付けた。これまで、これほどまでに鮮明に自分の声を発したファースト・レディーも、これほどまでに政治に執拗に没頭し、頂点に達した女性もいなかった。
18日、韓国でも翻訳、出版された彼女の回顧録『リビング・ヒストリー』は、米国で発売から1週間で60万部が売れ、話題を集めている。
17日午前10時半(現地時間)、米ワシントンの国会議事堂付近にあるフェニックス・パーク・ホテルで会ったヒラリー議員は、明るい金髪によく似合うピンクトーンのメーキャップに、黒いスーツを着込んでいた。
「どこに座りましょうか?」
今月9日、回顧録の発売後、本が翻訳、出版された国から1つのメディアを選定し、インタビューを行っているヒラリー議員は、同日午前、韓国の朝鮮日報、英国のザ・ガーディアン紙とそれぞれインタビューした。
インタビューは約20分間行われた。「20分は短すぎる」というと、随行した補佐官から、「(ABCの)バーバラ・ウォルターと(CNNの)ラリー・キングなど特別な場合を除いては、国内、国外に関係なく、インタビューは20分」という返答が返ってきた。
ヒラリー議員はインタビューで、始終豪快に笑った。「1人で泣いたことももちろん多かったが、泣いたのヘもうずいぶん前のこと」、「子供をたくさん産みたかったが、上手く行かなかった。娘1人だけで感謝する」と、プライベートなことまで隠すことなく、打ち明けた。
ヒラリー議員は「ホワイトハウスで生活した8年間は、信仰と家族、友人らの全面的な支援に支えられ、耐えることができた」としながら、「大統領である夫の国政運営に対する支持と信念も力になった」と付け加えるのも忘れなかった。
-本の題目の「リビング・ヒストリー」とはどういう意味か。
「私は歴史の流れの中で生きた。ある意味では、私は生きている歴史の象徴であると考える。米国のファースト・レディーとしての経験、100年前の過去ではなく、今息衝いている歴史について、大衆と語り合いたいと考えた」
-韓国と関連し、最も緊迫した瞬間を「1994年の北朝鮮の核危機」と言及している。当時、ホワイトハウスの雰囲気はどれほどまでに緊迫していたのか。あなたの状況判断はどうだったか。
「94年の核協定の妥結こそ、クリントン政権の外交的業績中一つだと考える。もちろん、当時ものすごい緊張感が漂っていた。私たちは北朝鮮がもう一度、極めて好戦的な方法で自分らの目的を求めていくと考えた。また、米国の関心をひこうとしていると判断した」
「私たちは必要であれば、強力な武力を使って立ち向かうという点を鮮明にした。一方では執拗に交渉にも乗り出した。私の夫と政権は、パートナーである韓国政府とも緊密に共助した」
「私たちは北朝鮮が核兵器生産のための最も簡単で速い方法は選択していないと考えた。しかし、後になって、高濃縮ウランを製造しているという事実を知り、彼らが信頼を崩していることを知った」
-当時、軍事的衝突の危機はどれほど現実的な状況だったのか。
「軍事的対応の準備が、確実に、完璧に整っていた。私たちは当然、軍事的対応を考慮した。考慮せざるを得ない状況だった。北朝鮮の核武装は地域安保にとってものすごい危機ではないか。韓国を脅迫することも、日本や中国を攻撃することもあり得る」
「また、核兵器をテロ国家に販売する可能性はさらに高い。これはすなわち、全世界に対する脅威ではないか。軍事行動にどれだけ近く接近したかを話すことはできないが、北朝鮮も私たちの決断を認知した。だから、協約を締結した」
-本に、各国の首脳との出会いについて書いている。韓国の首脳を憶えているか。
「金大統領夫妻を憶えている。93~94年に在任していた。特に、夫人(孫命順(ソン・ミョンスン)氏)が私と同じメソジスト教の信者で、さらに印象に残っている。金大中(キム・デジュン)氏はいつ当選したのか?97年?大統領府を訪問した際、とても丁重なもてなしを受けた。金大中氏は重要な人物だったと考える。また、新しい韓国の大統領にも会ってみたい。彼については、記事を読んだだけで、知っていることがない」
-韓国に詳しいと思うか。
「詳しいとはいえない。韓国を訪問したのは2回で、どれもすばらしい経験だった。しかし、私の職責を考えれば『韓国に詳しい』といえるほどではない」
-いつ大統領に出馬する計画か。
「その気はない」
-大統領になりたいと思ったことはないか。
「一度たりともない。どれほど大変なポストかよく分かっているから。大統領という座は人の存在を丸ごと飲み込んでしまう。私は大人になってから、すべての大統領がホワイトハウスで悪夢のような挑戦に直面することを目のあたりにしてきた。実に多大な責任感を要するポストだ。私は2004年、民主党候補のホワイトハウス入城を支援したい」
-女性の身で法学部教授、弁護士、州知事夫人、ファースト・レディーを経て、今度は上院議員に変身した。あなたの人生の目標は?
「生きる価値があり満足できる人生を生きてきたなと思えるような人生を生きること。今や『女の一生はこうあるべきだ』というルールはなくなった。韓国の女性にもあらゆる機会が開かれているのではないか。私が普段から強調していることは、女性が自分の望むことを選択できるようにすべきだということ。私はこれまで自分のために正しい選択をしようと努力しながら生きてきた」
-あなたを嫌う人も少なくないが、これまでの非難の中で最も悔しいと思ったことは?
「多すぎてどれにするか決められない。夫が大統領選挙に出馬した当時、私は45歳だった。それまで、誰かが私についてそれほどまでに厳しく非難したことはなかった。どころが、いきなり政敵が攻撃を始めた。私を攻撃し、夫を攻撃した。辛い経験だった。自分に関わったとんでもない噂を聞き、疑われる日々が続けば、全身が麻痺してしまったように、身動きを取れなくなってしまう」
「私がそれほど非難された理由は、私と夫の政策が原因だと考える。私たちが彼らと政治的に合意していたなら、それほどひどく非難されることはなかっただろう。一方では、関心を持ってくれたことをありがたく思えるようにもなった。それほどまで、私の声が影響力を持っているということだから」
-(夫の)相次ぐスキャンダルに疲れ、「私も」と思ったことはないか?
「私の結婚生活について熟慮しなければならなかったが、そんなことを思ったことはない。結婚生活をどうやって維持していくかを悩むだけで精一杯だった」
-あなたの夫をめぐるスキャンダルの理由は何だと思うか。
「彼は人一倍カリスマを持った人だ。そのような点でいろんな人が関心を持ち、話題を作り上げるようだ」
-本の内容が歴史的事実とは異なり、正直さに欠けるという世論もある。
「もちろん私は自分の考えを全て打ち明けてはいない。そんな人はまずいないだろう。しかし、私はホワイトハウスでの8年と私の人生に対し、比較的公正に書いたと思っている。読者からもそういう評価を受けた」
-ファースト・レディーになった時より、上院議員に当選した時の方が嬉しかったか。
「ファースト・レディーとは夢のような経験だ。しかし、象徴的な存在だ。一方、上院議員は職業だ。私の役割と私が下す決定を通じて評価を受けるというところに、とても満足している」
-あなたの本を夫も読んだのか。
「最初から最後まで全部読んだ。とてもよく書けていると喜んでくれた。夫も回顧録を執筆中だ。来年か再来年初めには出版される。最近、ペンで直接一生懸命に書いている。素晴らしい本になるはずだ。自分の人生ストーリーだけでなく、同時代の米国の歴史をも盛り込んだ膨大な著書だ」
ヒラリー議員はヘアーバンドやヘアースタイルなど、自由奔放な外見で話題になったが、徐々に自分だけのスタイルを確立していった。特に1998年の「モニカ・ルウィンスキー」スキャンダル以降は支持率が上がり、ファッション雑誌のカバーを飾り、本格的に「きれいになった」という賛辞の言葉を聞くようになった。
この日のインタビューで、「専門のスタイリストを雇っているか」と聞くと、ヒラリー議員は「外見を飾り装うのが上手くなった」とし、「私のように失敗の多い人は、それを通じて何かを学ぶようになっている」と話した。「外見に神経を使うことがそれ程重要か」と聞くと、「他人に『ベスト』を見せるのは重要なこと」と語った。