放送生活35年「アンカーウーマン1号」の朴贊淑氏

 今年3月8日で、朴贊淑(パク・チャンスク/58)アンカーが司会を務める『ここはラジオ情報センター 朴贊淑です』(KBSラジオ)が2700回目を迎える。

 『ここは…』は金大中(キム・デジュン)大統領の対北送金談話など、その日に起きた最高の争点について、各党の代表や長官などを番組中に電話でつないで、問題の核心を鋭く問い質す番組だ。

 朴アンカーは刃物のように鋭い質問で、大韓民国の権力者たちに冷や汗を流させることで有名だ。一方、リスナーにとっては争点の本質を手に掴めるほどに分りやすく理解させていると評価させている。

 “マイクの前の牝狐”、“バーバラ・朴”(米国の著名なアンカーウーマン バーバラ・ウォルターズを真似て)などと呼ばれる彼女に、2700回目を迎える感想を聞くと、「上手くやらなければならないということが、常に負担」だと話した。

 現在、韓国最高のアンカーの一人として挙げられているが、彼女には一時、職場から追い出され、衣類の商売を営む試練もあった。

-アナウンサーとして出発したのに、どうやってアンカーとして抜擢されたのか。

 「1968年にKBS中央放送局のアナウンサー1期として、初めて足を踏み入れた。もう放送生活も35年になる。初めはコールサイン(時間の通知)から始めたが、インタビュー番組などを受け持ちながら、対談やインタビューなどの可能性を認められたようだ」。

 「1976年、夜9時のニュースを担当し、“アンカーウーマン1号”と呼ばれた。しかし、当時はアンカーというより、ただ『ニュースに参加した』という表現が適切だ。KBSが1994年に破格にも昼の時間帯の時事番組に挑戦を決定、適任者を物色した。会社から『やってみるか』と聞かれ、私のその場で『やります』と答えた」。

-この番組を通じてインタビューした人の中で、最も印象に残っている人は誰か。

 「特に思い浮かぶ人はいない」。

-誰かを特定してはいけないという“政治的判断”のためか。

 「そうではない(笑)。大半の人が質問によく答えてくれている」。

-盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領当選者に対する印象はどうか。

 「90年代、当選者が聴聞会のスターとして浮上した時、番組でインタビューした。当時、盧当選者はインタビューの返事にためらいがなかった。今回の大統領選でもインタビューを行った。私が『数年前、この番組で私が話したことを覚えているのか』と聞くと、『朴委員のように数年前のことを覚えている人が多いから、困ってしまう』と述べ、一緒に笑った」。

-事案の核心を的確に把握し、質問すると評価されている。質問は誰が準備するのか。

 「チームで、基本的な質問5~6問を用意して、番組が始まる前に相手側に伝達する。しかし、いざ番組が始まると、準備された質問よりはその場で作った質問を投げかける」。

-なぜ、放送生活を始めたのか。

 「学生時代の夢は映画監督だった。父の反対で学生時代の夢は諦めるほかなかった。私たちの時代は大学を卒業すると、秘書や教師になるのが一般的だったが、そのようなことよりは、テレビの仕事が面白いと思ったので、挑戦した」。

-放送をする上で、“消してしまいたい”ほどの失敗はあったか。

 「深刻なものはなかった。市民団体で活動している方で、名前が金タギュンさんだった。まさか、そんな名前があろうかと、“金テギュンさん”と紹介したことがある。法案が改正されたことを知らず、質問して、当惑したこともある」。

-これまでの放送生活で最も辛かった時期は?

 「80年に解雇された時だろう。権力によって私の人生が勝手に裁断されたと思うと、腹が立った。解雇されてから何日か経ってテレビニュースを見ていたら、私と親しかった人が解説をしながら、『解雇された人は自己反省すべき』と話していた。その時は本当に気が狂いそうだった」。

-そんなに辛い時期をどのようにして乗り越えたのか。

 「当時は私が地球の外側に追い出される感じだった。片足はこの世につけていなければならないと思い、家の付近で衣類の商売を始めた。朝方、東大門や南大門市場に行き、安値で衣類を買ってきては店で売った。当時、市場の商人たちから『テレビに出ていなかったか』と聞かれ、恥ずかしかったが、『そうだ』と答えた。それから、しばらくして、EBS(教育テレビ)から仕事の依頼を受け、再びマイクを握るようになった」。

-時事番組のアンカーを9年間も続けるということは容易なことではない。どのように努力してきたか。

 「時事の脈を見失わないように努力した。午前5時半には起きて、各テレビの時事番組を聞きながら、司会者がどのように質問し、進行していくのかを研究した。毎朝、3つほどの新聞を1面から最期まで精読するのは基本だ。残りの新聞は社説に目を通し、必要な資料をスクラップして、随時読んでいる」。

-成功したアンカーウーマンとして、政治界から誘惑の多いはずだが。

 「NCND(肯定も否定もしない)」。

-誘いが多かったという意味として解する。今後、機会があれば、政治を行うことも可能性もあるのか。

 「そうじゃない。山の石は、山にあるのが似合うのだ」。

 最後に放送人としての彼女の夢を聞いてみた。彼女は「歌手の李美子(イ・ミジャ)さんが歌手人生40周年を迎えた時、インタビューをしたことがある。当時、インタビューを終えながら、『私も放送40周年を迎えることができるだろうか』と考えた。そうできれば、光栄だ」と述べた。

孫檉美(ソン・ソンミ)記者
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c)Chosunonline.com>
関連ニュース