古群山という名前は、忠武公・李舜臣(イ・スンシン)将軍の『乱中日記』に初めて登場する。李舜臣将軍は1957年9月、鳴梁海戦(慶長の役での海戦)で日本水軍を破った後、12日間にわたり仙遊島に滞在しながら船を修理した。ここには高麗時代から群山鎮という水軍の陣営があった。朝鮮第4代国王・世宗の時代に群山鎮を陸地に移し、現在の群山市ができたことで、仙遊島一帯には昔を意味する「古」の字が付き、古群山と呼ばれるようになった。

 古群山は絶景が多いことで有名だ。中でも「仙遊八景」が代表的。仙遊島の南島と北島を結ぶ明沙十里海水浴場は全長1.3キロ、幅50メートル。美しい砂浜、澄んだ海が望主峰と調和をなし、まるで1枚の水彩画のようだ。「仙遊スカイライン」も名物。仙遊島海水浴場の入り口にある高さ45メートルのタワーからロープを伝って松島まで700メートル下りながら、美しい景色を眺めることができる。

 海を赤く染める夕日、島流しになった儒生が王を思いながら流した涙のようだといわれる望主の滝も見事だ。夜の壮子島沖で漁船数十隻が灯す明かり(壮子漁火)も、仙遊八景の一つに挙げられる。また、古群山群島のあちこちで海釣りや干潟体験などを楽しむことができる。漁村体験村がある壮子島や仙遊島、新侍島は2015年に観光客4万8000人が訪れた。

 古群山は中国との交流拠点でもあった。1123年、宋の使臣・ 徐兢はこの地を経て、高麗の首都・開京(現在の北朝鮮開城市)を訪れ、その記録を『高麗図経』に残した。新侍島には新羅時代の文人・崔致遠(チェ・チウォン)が学問を修めたという話が伝えられている。

ホーム TOP