ソウルの歴史と共に流れる漢江 切頭山聖地(上)


 韓国の首都・ソウルの真ん中を貫いて、悠々と流れる大河・漢江。600年に及ぶソウルの歴史と共に歩んできたこの川の周辺には、さまざまな文化遺産や遺跡が点在し、その歴史を今に伝えている。7月の暑い日差しの中、漢江のさわやかな風に当たりながら、周辺の代表的な遺跡、望遠亭と切頭山聖地を訪ねてみよう。

望遠亭
 望遠亭は朝鮮王朝時代、漢江でも最高の眺望を誇る名所といわれた丘の上に建つあずまやだ。朝鮮王朝第4代国王・世宗の兄、孝寧大君の別荘として建てられた。正面3間、側面2間の楼閣型で、建物の四隅に二軒(ふたのき=垂木を二段に重ねた軒)を配置した、韓国固有の華やかな丹青が施されている。望遠亭の中にある扁額には、なぜか「喜雨亭」と書かれているが、これには世宗大王と、その兄・孝寧大君にまつわる逸話にちなんだものだとされる。干ばつが収まらない状況を案じ、農民たちの暮らしぶりを視察するため、王宮の外へ出た世宗大王が、孝寧大君の新しい別荘を訪ねたところ、突然雨が降ってきた。その様子を見て大変喜んだ世宗大王は、「恵みの雨を喜ぶ」という意味を込め、別荘を「喜雨亭」と名付けたというわけだ。その後も世宗大王は喜雨亭をたびたび訪れ、近くの楊花津で訓練に励む兵士たちを閲兵し、農民たちの様子を視察したという。
 その後、1484年に、第9代国王・成宗の兄、月山大君が、「山と川が織り成す美しい景色を遠くから眺める」という意味を込め、「望遠亭」に改名した。以来、歴代の王たちは、世宗大王の代と同じように、毎年春と秋に農民たちの様子や水軍の訓練を視察するため、この望遠亭を訪れた。このように、望遠亭は朝鮮王朝時代の王にまつわるさまざまな逸話が残っている場所だ。また、多くのソンビ(学者)たちがここを訪れ、美しい景色を眺めながら詩を詠んだり、風流を楽しんだりした名所だった。とりわけ、月山大君は、雪化粧した楊花津の景色を「楊花踏雪」と呼び、「漢城十詠」(漢城〈現・ソウル〉の十大名所)の一つに挙げた。暴君として知られる第10代国王・燕山君は、約1000人が入れる大きな建物に改築しようとしたというが、これは望遠亭からの景色がいかに素晴らしかったかを物語るエピソードといえる。


望遠亭の三門
 幅が3間で、切妻屋根を持つ大門。中央部の屋根は左右に比べ1段高くなっている。望遠亭の左側、南東方向へ下ると三門があるが、江辺北通りに面しているため、この門を通って望遠亭へ入るのは不便だ。


ソウル徒歩観光コース
 ソウル市では観光客のために無料で徒歩観光コースを行っている。文化解説士の案内でソウル歩いて回るコースは、清渓川徒歩コース、岩寺洞・夢村土城コース、宗廟・孝子洞コース、南山城郭・韓屋村コースなど、12コースがあり、希望や好みによって選ぶことができる。ソウル徒歩観光への申し込みは、「http://japanese.visitseoul.net」の「ツアー情報→ウォーキングツアー」にアクセスし、希望日の3日前までに予約すればOK。文化解説士の親切な案内とともにソウルが楽しめる。5人以上のグループの場合は、集合場所への送迎サービスも受けられるのでお問い合わせを(☎82‐2‐2171‐2461)。

漢江・切頭山聖地コース 所要時間:約2時間30分
 望遠亭-漢江-仙遊島公園-楊花渡船場-蚕頭峰-切頭山殉教博物館-楊花津外国人宣教師墓地

切頭山殉教聖地
 新たに入ってきた宗教に対する拒否感や迫害は、古今東西を問わず存在するものだ。韓国に初めてカトリックが伝来したときも、国家は宗教やそれに関係する文化に対し、すさまじい迫害を行った。切頭山殉教聖地は、先に紹介した蚕頭峰にある。この地で1万人以上ものカトリック信者たちが処刑されたため、山の名前も「切頭山」に変わってしまった。まさに、韓国のカトリックの聖地といえる場所だ。第26代国王・高宗が王位に就いていた1866年、カトリック信者に対するすさまじい迫害が行われ、9人の神父と数多くの信者たちが凄惨な死を遂げた。このとき、命からがら脱出したリデル神父の話を聞き、フランス艦隊が漢江を上ってきた(丙寅洋擾)。これに対し、朝鮮軍はまったく反撃できず、フランス艦隊は自ら退却した。当時、鎖国政策を取っていた興宣大院君は、フランスの軍艦が楊花津までやってきたことで味わった屈辱を払いのけ、恨(ハン)を解くために、「オランケ(野蛮人)がとどまっていた場所はきれいに洗い流さなければならないが、漢江の水で洗い流すのは、あまりにももったいない。いっそのこと、オランケが連れてきたカトリック信者の血で洗い流そう」と訴えた。そして、カトリック信者の処刑場を蚕頭峰に移し、多くの信者たちの首を切った(丙寅教獄)。それ以来、蚕頭峰は「切頭山」と呼ばれるようになり、韓国のカトリックの聖地となった。

楊花渡船場と蚕頭峰
 次に紹介するのは、韓国のカトリックの聖地とされている蚕頭峰と、その周辺にあった楊花渡船場跡だ。蚕頭峰の名は、その形が蚕の頭に似ていることに由来する。今ではかつての面影は失われているが、朝鮮王朝時代はこの近くに、金浦や江華島と結ぶ渡船場「楊花津」があった。楊花津は昔から、松坡津・漢江津と共に、漢江を代表する「三津」の一つとされ、渡船場としてだけでなく、外国の侵入や一揆に備え、常備軍が駐留していた場所でもあった。また、外国人宣教師たちが海の向こうからやって来て、朝鮮の地に上陸する拠点ともなった。
 楊花津の一帯には柳の木が生い茂り、素晴らしい景色を誇っていた。中国から使者が来れば、ここで船遊びを楽しみ、川沿いにはソンビたちの別荘も建ち並んでいた。1882年の壬午軍乱以後は、清や日本をはじめとする世界の大国と条約を締結したことにより、外国人居留地や貿易を行う開港場へと変ぼうした。



「貝の井戸」に由来する合井洞
 ソウル市麻浦区合井洞は、貝塚があったことに由来する地名だ。現在の切頭山殉教博物館の近くには、地名の由来となった「貝の井戸」があった。刑場だったこの地で、死刑を執行する役人たちが、その道具として使う刀を研ぐために井戸を掘ったところ、その底に貝殻が多かったため、「貝の井戸」と名付けられた。この井戸の水は、カトリック信者たちに対する拷問(ごうもん)にも使われたが、江辺北通りを建設する際に埋め立てられた。

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