-今年は二つの外国作品に出演し、海外でも注目を浴びる俳優として活躍している。ハリウッドではどんな経験をしたのか。
「カネの論理で動くということがはっきり目に見える世界だった。スポンサーが絶対的な力を持っている。韓国の撮影現場で感じるような、人間的な温かさというものは感じられなかった」
-米国で撮影しながら差別を受けたことはあるか。
「英語にはかなり自信があったが、スラングがよく分からず、会話の中になかなか入っていけなかった。撮影の前半、僕のために現場の雰囲気が白けてしまうのではないかと、バスで移動するときもずっと黙っていた。自ら進んで仲間はずれにされていたようなもの。ほかの俳優たちの間では、『何様のつもりだ』『偉そうに』などとうわさされていたようだ。でも時間がたつにつれ、少しずつ親しくなった。今でも時々連絡している。ロサンゼルスに行くとシエナ・ミラーに電話をかける。すると、たくさんのパパラッチに追いかけられながらも、気軽に会いに来てくれる」
-ハリウッドでイ・ビョンホンの位置はどれくらい?
「ヨチヨチ歩きの段階にもならないだろう。僕は本格的にハリウッドに進出すると話したことはない。僕は自分の基本を失いたくない。僕がいくら英語がうまくなっても、米国人の習慣や文化をその国の人ほどうまく表現することはできない。僕が一番うまく演じることができるのは、韓国で韓国語で演じる韓国人の役」
1991年、KBS公開採用タレント14期でデビューしたイ・ビョンホンは、「新人のころ、プロデューサーによくしかられた。軍に入隊する前、母の友人の勧めでタレントの試験に挑戦したら合格してしまった。だから、『この道以外にも進む道はある』という思いがいつも胸の片隅にあった」と話す。しかしいつのころからか、「プロデューサーの乗った車のドアを開ける俳優ではなく、プロデューサーがドアを開ける俳優になろう」という思いが強くなってきたという。イ・ビョンホンは「テレビ局のプロデューサーがとても力を持っていた時代だった。いつもしかられているうちに、気が強くなり、根性がついたのかもしれない」と言って笑った。
-テレビで見ると、生まれながらの俳優のように見えるが。
「親しい人ばかり2、3人でいるときはリーダーになろうとするが、それ以上にたくさんの人と一緒にいると緊張してしまう、そんなタイプだ。自分は“スケールの小さい”人間だと思っていたため、俳優になるなんて想像したこともなかった。実際に俳優になってみたら、意外にもたくさんの人の前に立つということはほとんどなかった」
-俳優をしていなかったら今ごろ何をしていたと思うか。
「映画が好きだから、俳優ではなく、映画制作の分野で仕事をしていたかもしれない。浪人をしようと決めた時、建設会社を経営している父が真剣に『掘削機を買ってあげるから、重機の免許を取ってみろ』と言ってきた。
あの時その免許を取っていたら、今ごろ掘削機を操っていたかもしれない」