「わたしには十分、可能性がある」と自分自身を励ましながら、留学を決めた。ところが、わたしが自分のことを信じているほどには、周囲の人々はわたしに好意的ではなかった。「わたしが黒い髪に黄色い肌を持つ東洋人だから、あなたたちの気持ちをきちんと理解できないだろうと偏見を持っているのか」と問い詰めたくなるほど、つらい時期もあった。アジア通貨危機(1997年)によりみんな苦しかったため、実家に援助を頼むことはできなかった。「いつかはあなたたち全員がわたしの名前を見ることになるはず」という意地から、歯を食いしばり、後ろ指を指されながらも留学時代を耐え抜いた。わたしを信じ、援助してくれた両親や、姉を見習おうとしている妹を失望させることは、本当に死ぬより嫌なことだったから。
2002年にロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ校を卒業、7カ月もポートフォリオ製作にかかり、ディオール、ジャン=ポール・ゴルチエ、アントニオ・マラス, ドルチェ&ガッバーナ、ヴィヴィアン・ウエストウッドの門をたたいた。そのうち、ディオールの個人ブランドであるメゾン・ガリアーノから真っ先に連絡をもらい、そこで働くチャンスを得た。おかげで、クチュールのクオリティーや歴史がどれだけ高く深いものかを知ることができた。しかし、より多くのものを自分のものとして吸収することができず、ケンゾーに移ったのは今も心残りだ。
それでも、ケンゾーの新しいアートディレクター、アントニオ・マラスのファーストアシスタントとして働けるというのが何よりも魅力的で、しかも彼から入社を進められたため、ケンゾーに移った。わたしの能力を認めてくれるアートディレクターの近くで働いた経験は、デザイナーとしての自信を育ててくれたし、「自分の名前でブランドを発表し、自分のデザインを展開していきたい」という気持ちが少しずつ大きくなっていった。
そして06年10月、フランスのパリ・ファッション・ウイーク期間中に、自分の名前を冠した「Doii Paris(ドイ・パリス)」を発表した。その後、海外でのショールーム運営が成果を挙げ、ついに09年3月、ソウル・ファッション・ウイークのソウルコレクションに参加することになった。もちろん、デザイナーとしてわたしが持っているのは、とどろく名声でも、巨額の富でもなく、まだ情熱と抱負、旺盛な好奇心くらいしかないが、わたしの服を世の人々が「欲しい」「着たい」と思うブランドにするという夢をかなえるまでは、休むことなく走り続ける自信がある。