【レビュー】『悲夢』、幻想と愛の鎮魂歌

オダギリジョーとイ・ナヨンが共演、葦原のシーンが圧巻


 この映画は、キム・ギドク監督の愛に対する悲しいレクイエム(鎮魂歌)だ。キム・ギドク監督15本目の映画『悲夢』(10月9日公開)は時に激しく、また時に静かに愛の限界を歌う。監督の映画人生で一つのターニングポイントとして評価されている『うつせみ』(2004)以来、最も幻想的で省察的な「ざんげ録」だ。

 ここに、夢を見る男と、その夢を実行する女がいる。不思議なことに、ジン(オダギリジョー)の夢はラン(イ・ナヨン)が行動することで現実になるのだ。例えば、夢でジンがひき逃げ事故を起こすと、現実の世界で事故を起こし逃げるのはランだ。夢遊病状態での信じがたい因果関係。問題は、ジンとランの別れた恋人同士が付き合うことになったということ。昔の男(キム・テヒョン)を恨むランとは違い、ジンは昔の女(パク・チア)を忘れられない。夢の中でジンが昔の女と愛し合えば、大嫌いな昔の男と現実の世界で体を重ねるのは夢遊病状態のラン。自己嫌悪に苦しむランは、ジンに眠らないよう命じる。

 余韻や含蓄が好きな観客とっては少々嫌な気分になるほど、キム・ギドク監督の例えや象徴は相変らずストレートすぎるようだ。例えば、荘子の「胡蝶(こちょう)の夢」を思い起こさせるネックレスのチョウのモチーフと夢の関連性、脱げた靴を履かせるシーンに暗示される癒しと和解がそれだ。もちろん、このストレートな象徴はそれぞれ強烈なエネルギーを放ち、キム・ギドク監督のメッセージを伝える美徳を備えている。

 この映画最大のハイライトは、愛の本質を凝縮させ描いた中盤部の葦原のシーンだろう。現在と過去の恋人4人が入り乱れ、重なり合いながら、愛という暗号の解読を試みる。愛情と激情、嫉妬(しっと)と疑念、憤りと哀れみ、譲歩と犠牲など、愛のさまざまな苦しみが込められている。

 オダギリジョーとイ・ナヨンという魅力的な俳優二人と一つの画面で会えるのは大きな喜びだ。興味深いのは、オダギリジョーはせりふを日本語で、イ・ナヨンは韓国語で話すということ。間に通訳がいなくても、二人のコミュニケーションに問題はないものとして描かれている。

 前作『Breath』(07)では台湾の俳優・張震(チャン・チェン)に声が出ない死刑囚役を演じさせ、言葉の壁を乗り越えたキム・ギドク監督だが、今回は初めから観客の了解の下に壁を突破しようとしている。確かに、映画の序盤部では言葉の衝突に当惑する。しかし、主演二人のすきがないせりふ回しや、人々を引きつける力強い演技は、たちどころにこの違和感を自然と忘れさせてくれる。まるで魔法のように。

 特に、不吉で予言めいた話し方や、過激な行動で愛の没落と崩壊を暗示しつつ、ソフトで叙情的な口調でロマンチックに恋愛を語るオダギリジョーは、とても魅惑的だ。『私たちの幸せな時間』(06)以来久しぶりにスクリーンに登場したイ・ナヨンは、キム・ギドク監督独特の非日常的な人物設定に当初苦戦していたようだが、中盤以降は安定し、それほど不協和音を出すことなく、一体化していた。夢遊病を治療する医者役で出演しているチャン・ミヒも、映画の幻想的なシーンの一つを織りなしている。

 無理やり恋人との鎖を切った男女が、うずく胸の傷を慰め合う。確かに悲観的だが、もう一度見てみたい悲しい夢が『悲夢』だ。

オ・スウン記者
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