◆事務所ともめた後、相次ぐ不幸
ここ数年はさらにひどかった。日本のトップ演歌歌手とは思えないほど、桂銀淑は2004年から05年まで約2年間、事務所との民事裁判で活動がほとんどできなかった。このころストレスによる不眠症と食欲不振で、テレビ収録を前に突然意識を失って倒れたこともあった。海外で何度も浮き沈みや試練を経験しながら、活発な性格だった桂銀淑は、徐々に閉鎖的になっていった。特にうつ病がひどかった。彼女はすでに、正常に歌手活動ができないほどに体と心が疲れきっていた。
覚せい剤を初めて服用することになった原因に関する話も多い。あるスポーツ新聞はこれについて、桂銀淑と直接話をした歌謡関係者のインタビューを記事化したことがある。当時、記事で桂銀淑が述べたという部分はこうだった。
「覚せい剤を服用したのは20年前の交通事故が原因だった。20数年前、大邱地域でのイベント再開のため移動していたところ、車が転覆する事故に遭ったが、そのとき車のガラスが割れて、頭に破片が刺さった。事故直後、病院で破片の除去手術を受けたがいくつか残っていて、時間が経つにつれひどい頭痛がするようになった。以後、日本で活動するようになり、事務所を通じて頭痛に効くという正体不明の薬をもらったが、それがまさに麻薬成分入り覚せい剤だった。薬を飲むうち、次第に中毒になっていった」
この内容が事実なら、桂銀淑に覚せい剤を勧めた人たちにも責任の一部を負わせることができるはずだ。もちろんこのことは、桂銀淑が勇気を出して明らかにしなければならない部分だ。
日本で活動する間、桂銀淑は母親を一人ソウルに残していたため、常に罪の意識を持って過ごしていた。そして極度の辛さを感じたとき、頭に浮かぶのは唯一母親だけだった。すでに80歳を超えた母親は乳がん手術と糖尿の合併症、ひどい骨粗鬆症で健康な体ではなかった。そのころ、桂銀淑は韓国のあるテレビ局との短いインタビューで、歌のことより母親の話をたくさんしている。
「歌手になると言って母親をとても心配させました。母の言葉も聞かないで。わたしが日本で活動している間、母親は一人で乳がんに打ち勝ちましたが、今も糖尿と骨粗鬆症がひどいです。一度抱きしめてみたら、あまりにもやせていたので涙が出ました。今からでも母親の体をさすり、母親にわたしの体もさすってもらいながら暮らしたいです」
桂銀淑は日本に行った後、来韓コンサートや韓国国内でのテレビ出演を極度に控えた。日本でのデビュー当時、事務所の意向で韓国人だという事実を隠して活動したのが心に引っかかっていたからだ。今では韓国で成功した芸能人たちが「韓流」という名で待遇され、日本に進出しているが、その時代は環境が大きく違っていた。
メディアが桂銀淑に「元祖韓流」という修飾語を付けた。「元祖」にはいつも苦労が付き物だ。桂銀淑という名前も使うことができず、足を踏み入れた日本は桂銀淑に帰化を要求し、それを聞き入れなかったことが葛藤につながった。桂銀淑が日本人を泣かせた切ない歌声は、もしかすると言葉ですべて表現できなかった自分の悲しみが作り出した、もの悲しい産物なのかもしれない。