【レビュー】在日社会をリアルに描いた日本映画『パッチギ!』


 在日朝鮮人は屈曲の多い韓国近現代史に深く残る患部だ。傷が痛むせいだろうか、これまで韓国で彼らを扱った芸術的接近は専ら負い目の意識から出発して厳粛主義を脱することができなかった。

 しかし、昨年日本でキネマ旬報05年度ベスト10、朝日新聞ベスト映画などに選ばれ好評を博した日本映画『パッチギ!』(14日公開)は在日朝鮮人に対するこうした感傷的接近方法を正面から描いている。理念を押し付けも、覆しもしないが、矛盾だらけの社会を猛攻撃する方法をクールに教えてくれる秀作だ。

 「頭突き」を意味するハングルの発音をタイトルにした『パッチギ!』が主張するように、映画は在日朝鮮人と韓半島について描いている。時は日本で学生運動が盛んだった1968年。京都の府立東高と朝鮮高の生徒たちは毎日のように乱闘騒ぎを起こしていた。

 東高に通う康介(塩谷瞬)は担任に頼まれ、朝鮮高に親善サッカー大会を提案しに行く。そこで康介は音楽室でフルートを吹くチマチョゴリ姿のキョンジャ(沢尻エリカ)を見て一目惚れする。彼女に近づこうとハングルを習い、発禁曲だった『イムジン河』をギターで練習した。しかし、二人の間が最も縮まった時、朝鮮高の生徒が日本人生徒との争いで命を落とす。


 この映画の最大の美徳は自由と平和、革命と戦争という壮大なテーマを隅々にわたって扱っているが、現実の目の高さに合わせたおかげで退屈でも重くもないということだ。これはイデオロギーの黒幕に選り分けられた暗い個人を暴き出すのではなく、試行錯誤する個人の日常の中に理念を投映した監督の戦略だ。

 『パッチギ!』は確かに日本の監督が作り、日本の俳優が出演している日本映画だ。しかし、映画の至るところに描かれている在日朝鮮人社会の姿は、時々韓国向けに作られた歴史教科書のような印象さえ与える。韓国ではその存在さえ知らなかった北朝鮮歌謡の『イムジン河』が主人公の愛の媒介であると同時に、 映画の重要なモチーフとして使われ、台詞の一行一句に歴史がぎっしりと詰め込まれている。

 在日韓国人のイ・ボンウ(シネカノン)氏が制作を担当したという事実だけでも映画は一定のリアリティーを持つが、傑作を誕生させた最大の原動力は井筒監督の勇気のようだ。

 1981年のデビュー作『ガキ帝国』からずっと在日朝鮮人に対する深い洞察を続けてきた井筒監督は「イ・チョッパリ・セッキヤ(この日本野郎)」といった韓国語の台詞を若い日本の俳優の口を通じて吐き出しながら日本の肺腑を抉ることも躊躇わなかった。

 映画の最後まで井筒監督に頭突かれたような額を触りながら席を立った時、彼に何だか長年の借りを押し付けたような気がして足が重くなった。

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