それは言わば顕微鏡を通じて見た19世紀ロンドンの細密画だ。観客は5日に公開した大友克洋監督の『スチームボーイ STEAMBOY』に戸惑いを感じるだろう。ハイパーリアリズムを追求するアニメとは…。実写では不可能な極端な誇張と夢で描いたファンタジーこそ、このジャンルが与える快楽の本質ではなかったのか。
『スチームボーイ』はアニメを拒否するアニメだ。すべてのジャンルには自身の観客と約束したコミュニケーション方法がある。ネジやクギなど鉄で出来たものに魔法をかけ(ロボッツ)、カバやライオン、そしてペンギンに呪いをかけ(マダガスカル)、話せなかった者たちを話せるようにすることこそが私たちにとって身近なこのジャンル固有の話術だ。
しかし、大友監督の『スチームボーイ』はレオナルド・ダ・ヴィンチの理想的な人体解剖図を連想させる均衡の取れた体でロンドンやマンチェスターを走り回り、遠近法に土台を置いたテムズ川のタワーブリッジやウェストミンスター寺院は実際よりも緻密な美しさがスクリーンを埋める。一体、何が起ったのか。
大友監督のハイパーリアリズム戦略が始まったのは1988年。第3次世界大戦が起きた以降の世界を灰色のトーンで描き出した『AKIRA』(1988)は実物を凌ぐリアリティーで全世界のアニメファンを釘付けにした。それから17年。 約240億ウォンを投じた『スチームボーイ』のリアリティーは顕微鏡レベルにまで進化した。
しかし、資本の投入規模と関係なく大友監督が狙っていることは混乱させることだ。アニメの慣習に従わず観客を混乱に導いて結局は楽しむというよりは悩ませるというのがアニメの天才の戦略だ。自分のアニメは「商品」ではなく観客に投げかける「質問」というわけだ。
ならば、大友監督が投げかける質問の本質とは何か?まさにこの時点で『スチームボーイ』は限界と可能性を同時に現わしている。実際に2005年の観客に『スチームボーイ』のドラマは不釣合いなだけだ。産業革命の英国を時空に、発明品のスチームボール(超高圧の蒸気機関)を巡って争う科学者親子3代の話がこの作品の主な骨組み。
そして表面に現われる言い争いの裏で大友監督は近代以降の機械文明に対する根本的な問いを投げかける。果して科学は産業革命以降の近代人類を幸せにさせたのかと。
『AKIRA』『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』『イノセンス』『人狼 JIN-ROH』などの日本アニメが同じ質問を自国内で反芻しているうちに、ハリウッドのアニメスタジオ3社は精巧で洗練された商品としてのアニメで全世界のファンを拡張してきた。ピクサー、ドリームワークス、ブルースカイといったスタジオだ。
双方の違いは序列というよりはDNAの問題にあるだろう。地球上で唯一核爆弾を2回も落とされた国、機械文明に対する呪いにもかかわらず、それに依存しなくては生きていくことが出来ない国のジレンマが『スチームボーイ』には色濃く描かれている。たとえ他の国の観客が同意することが難しくてもだ。