ロングラン演劇を演出家自ら映画化した『オグ』

 はかなく消える運命にある演劇の「現場性」に嫌気が差したのか。

 演出家・李潤澤(イ・ユンテク)は自身の代表作、演劇『オグ』が13年間に200万人を越える観客を集めたのに満足せず、映像化を試みた。そして映画『オグ』(28日公開)を完成させた。

 80の「分身(プリント)」に複製された演劇は、死を生の延長と見なす原作同様、永遠の生を手に入れることに成功した。

 演劇と同じく、裸身に大きな性器を持った黄泉の使者を登場させる時点から、映画『オグ』は演劇そのままの展開を見せる。

 黄泉の使者(金ギョンイク)と未亡人(李ジェウン)のエピソードなど、所々に肉付けはしてあるが、うたた寝の時に見た夢で死を直感するファン家のハルメ(おばあさんの意/姜富子(カン・ブジャ))が「オググッ(使者の魂を極楽に送るためムーダン(巫女)を招いて行う儀式)」で隣人たちとの葛藤を解消し、あの世に行く準備をするというあらすじは演劇を踏襲している。

 映画初挑戦の李潤澤監督は、演劇的な演技と演出を映画にそのまま持ち込むことに何のためらいもない。

 映画『オグ』は、スクリーンにはスクリーンの語法があることを認めない。ファン家ハルメと長男、その嫁の滑稽なやり取りや、グッの間に割り込み、一言ずつ台詞を言う見物人たちの演技は、演劇のリズムに属している。

 演劇的な省略と圧縮は減らしたものの、過程はそのままだ。長い呼吸で劇場を満たした俳優たちのエネルギーは、カットとシーンに引き裂かれ、編集される過程で空間の中に吸い込まれてしまった。適応力が足りないためだ。演劇に比べ大幅に増えた群衆シーンをとらえるカメラアングルも単調で退屈させる。

 黄泉の使者が赤ん坊に生まれ変わる場面など、演劇では不可能だった映画的表現など注目される点もある。慣習的な映画演出に囚われまいとする試みも評価に値する。

 しかし、演劇に比べて多分に技術的であるべき場面のつなぎが所々でぎこちなく、不親切な印象を受ける。

 『オグ』と李潤澤監督が映画で表現の幅を広げたのは確かだ。あとは映画の「スマートな技術」を身につけるだけだろう。

朴敦圭(パク・トンギュ)記者
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