韓国を訪問した「薩摩焼」の十五代沈寿官

 「沈寿官という名と韓国は、私の誇りの元です」

 壬辰倭乱(文禄の役)の終わった1598年、日本に連れて行かれた朝鮮の陶工、沈当吉(シム・タンギル)の子孫である「十五代沈寿官」(44)氏が、釜山(プサン)大学が今月20~21日に開催した「韓日関係の総合分析-過去、現在、そして未来」国際シンポジウムに出席するため、韓国を訪れた。

 これまでマスコミで報道された「沈寿官」は十四代で、今回韓国を訪れた十五代沈寿官は彼の息子だ。大迫一煇という名で40年を生きたこの陶芸家は、2000年1月、正式に宗家の公式後継者としてデビューし、「沈寿官」という名を受け継いだ。

 400年余前、全羅(チョンラ)南道・南原(ナムウォン)で陶磁器を作っていた祖先の沈当吉は朝鮮の先進の陶芸技術を狙った倭軍に捕まり、今の鹿児島である薩摩に強制連行されたが、沈氏一家は日本の地で、朝鮮の名字の「沈」を使って、「薩摩焼」という華やかな陶芸文化を築き上げた。

 「沈寿官」という名は、沈当吉の十二代子孫の沈寿官氏が1873年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に、2メートルに近い大花瓶「錦手大花瓶」を出展、大好評を得たことから、以降家門の襲名に決まった。

 白と黒の2種類で代表される「薩摩焼」が欧州人に「サツマウェアー」と呼ばれ、その名を不動のものにした十二代沈寿官の業績は、日本の陶芸史を塗り替えたと評価されている。

 十五代沈寿官は「祖先ほど能力がなく、名を受け継いだ時は怖くて、自信がなかった」と告白する。

 「できることに最善を尽くせば、それで充分だという父の励ましが大きな力になった」という沈寿官氏は、「日本の中の朝鮮陶工の子孫として、韓国と日本、両国の期待を知っているから、両国文化交流の橋渡しの役割を果したい」と話した。

 沈寿官氏は戦後世代だ。帝国主義の日本で、朝鮮の血が流れるという理由で、幼年時代、周りの日本人にいじめられた父のような辛い記憶はあまりない。

 そのため、自分が韓国人か日本人かというアイデンティティーに対する煩悩に縛られることもない。

 沈寿官氏は韓国を「薩摩焼の種を植えた父の国」と定義し、日本は「その種を育て上げた母の国」だと説明する。「私は韓国という魂を持って、日本というフィールドで生きている」とし、沈寿官氏は明るく笑った。

 沈寿官氏が大学に通っていた時のこと。早稲田大学教育学部を通っていた彼は、ソウル(soul)など、黒人音楽に惹かれた。友人らと意気投合し、「ソウル研究会」という同好会も結成した。

 休みで故郷の鹿児島に戻った沈寿官氏が父に、「友人らと『ソウル研究会』を結成した」と誇らしげに話すと、十四代沈寿官は手を叩きながら、「さすが、わが息子だ。お前はやはり祖国を思っていたのだな」として、喜んだ。

 日本語の発音から、十四代沈寿官は「ソウル研究会」を「(韓国の)ソウル研究会」と聞き間違えたのだ。当惑した沈寿官氏が内容を説明すると、家族みんなで爆笑したという。

 沈寿官氏は沈寿官一家の伝統を初めて破った人物でもある。沈寿官の家門は過去400年間、代代に一人息子で家門を受け継いできた。わざと、息子を一人だけ生んだのではなく、偶然にも息子が一人だけしか生まれなかったのだ。

 しかし、十五代沈寿官は二人の息子を産んだ。「他の能力は全部祖先に遅れを取っていますが、息子に関してだけは、私が祖先に勝っています」

 二人の息子中、誰に「沈寿官」という名を受け継がせるのかという前代未聞の“難題”に、沈寿官氏はまったく心配していないという。「長男が名を受け継ぎ、次男がそれを助けてくれれば最善ですが、二人とも陶芸が合わないとすれば、名を受け継がせないかも知れない。沈寿官家は一人ではなく、20人余の陶芸家が一緒に働いている会社なのですから」

 愚かな船長では、船が沈んでしまうのは当然のことだと話す沈寿官氏は、息子の能力が足りない場合、名は受け継がせても、経営には手を付けさせないつもりだという。

 沈寿官家の陶磁器は年間30億ウォンの売上を上げ、日本全域に売られている。しかし、沈寿官氏は自分が陶芸家や事業家と呼ばれることが好きじゃないという。「周りから、ただ“陶磁器屋のおじさん”のような素朴な名前で呼ばれたいですね」

 「韓国と日本、両国は各自主体性を持って、互いの異なることを知らせながら、その差を楽しむべき」という沈寿官氏は最後に、「政治的問題よりも、生活の中の祭りのような文化的な行事と通じて、両国民が未来に向かって進んでいければ」と話した。

釜山=金ソンチョル記者
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