映画『アウトライブ/飛天舞』(2000年公開)の金ヨンジュン(35)監督がまたもやファンタジー武術アクション映画に挑戦する。
仮題は『無影剣』。渤海(パルへ)が滅びた後、中国中原に渡った渤海人たちを中心に、物語は展開される。
「『アウトライブ/飛天舞』は既存の漫画を脚色して作りましたが、今回は私が作家と共同で、直接シナリオを書きました。1年半くらいかかったかな。今回は作品に私の色をつけることができると思います」
『無影剣』の制作費は『アウトライブ/飛天舞』と同じ水準の40億ウォン程度を予想している。キャスティングも大詰めの段階だ。
中国・浙江省で撮影を始める予定だったが、正体不明の肺炎「SARS」(重症急性呼吸器症候群)の影響で、少し遅れているという。3カ月遅らせ、9月から撮影に入り、公開は来年春を予定している。
先月29日、ソウル・江南(カンナム)区・淸潭(チョンダム)洞にあるテウォンエンターテインメントの事務室で、髪を金色に染めた金監督と会った。金監督は美術チームとの映画制作のための会議が長引いたとし、記者との約束に1時間遅れて現われた。
-なぜ、またもや武術アクション映画なのか。
「武術映画のジャンルも、もはや定着しつつあります。『アウトライブ/飛天舞』をアップグレードしようと、テウォンエンターテインメント側と自然に意気投合しました」
-『アウトライブ/飛天舞』と何が違うのか。
「『アウトライブ/飛天舞』では観客の情緒上、消化しにくいと思い、諦めていた香港映画式の演出やファンタジー性をさらに強化するつもりです。空を一つ飛んでも、もっと多く飛び交うようにするつもりです」
『アウトライブ/飛天舞』は大規模なワイヤーアクションを韓国映画としては初めて導入し、観客230万人を動員した。「原作の漫画より面白くない」、「韓国の武術アクション映画の新しい時代を切り開いた」など、両極端な評価を受けたデビュー作に対して、監督自身はどのように評価しているのか、聞きたかった。
「映画が公開されてから、DVDで一度だけ観たことがあります。作品を作っておいて、物足りなく感じる部分があまりにも多くて、観るのが怖かったんです」。
原作の中の対決シーンを映画で再現するのが難しく、短い撮影期間も負担だったという。
「でも、『アウトライブ/飛天舞』を撮りながら、多くのことを勉強したし、ノーハウも積みました。自信がなかったら、2度も武術アクション映画を撮ろうなんて、考えるはずないでしょう?」
『敗者復活戦』(1997年)の助監督を経て、32歳でデビュー作『アウトライブ/飛天舞』を作った金監督は、頑として武術アクション映画を固執している。同年代同様、中学校時代に武術アクション小説を読み漁ったのが、今日、武術アクション映画を作ることにつながった。
「今は題目も覚えていない、本当に数多くの武術アクション小説を読みながら、夜を徹しましたね。香港の武術アクション映画も全部観ました。高校の時は、金庸(キム・ヨン)の『英雄伝』が本当に面白くて。授業中に読んで、先生に何度も怒られました」
彼は監督を夢見て、88年漢陽(ハンヤン)大学・演劇映画学科に入学した。卒業までに作った5つの短編映画、すべてがアクション映画だ。
「先輩たちはアクション映画を撮る私を理解してくれませんでした。当時は80年代後半だったため、社会状況が、運動圏の映画や実験映画を撮らなければならない雰囲気でしたから」
先輩たちから「精神が腐っている」、「学生として社会意識がない」という言葉を繰り返し聞かされた。
-正統の武術アクション映画とは何ですか。
「正解はありません。ただ、個人的に、武術アクション映画はファンタジーの性格がなければならないと思います。“歴史的事実”を見せるのではなく、“フィクションの歴史”を見せなければならない。武術を披露しなければならないのです。一蹴りで3~4人が倒れる。事実的な側面から見れば、たわけたことだけど、それを見て、観客は面白さとカタルシスを感じるのです」
武術アクション映画といえは、まだ“三流映画”扱いをされる。彼は『アウトライブ/飛天舞』を作って、このような固定観念に挑戦し、今も尚、挑戦し続けている。彼は武術アクション映画で認めてもらいたい、と話した。