跡形もない殺人犯を追う刑事の怒りと挫折 『殺人の追憶』

 2年8カ月ぶりだ。『共同警備区域/JSA』以降、大型ヒット作が何本も出て、監督の卓越した力量が発揮された作品も多く公開された。

 しかし大衆と評壇すべての心を完璧に捕えるだけの「卓越した大衆映画」は『共同警備区域/JSA』以来、『殺人の追憶』(25日公開)が初めてだ。

 ちょうど『殺人の追憶』が制作決定から公開されるまでに要した時間も2年8カ月だ。年末までにこの程度の映画がもう1、2本登場すれば、最近の忠武路(チュンムロ/韓国映画の中心地)の停滞ムードを打開し、今年1年は韓国映画の豊作の年となるかも知れない。

 「華城(ファソン)連続殺人事件」を映画で見たいと思うだろうか。その上、私たちはこの事件の始まりから未解決の結末まで、すべてを知っているではないか。

 しかし素材に対して起こるかも知れない一次的な拒否感は、ひとまず抑えておく必要がある。80年代を揺るがした実話の圧倒的重圧に押しつぶされないポン・ジュノ監督は、臨場感を極大化する細部の描写能力に精巧な裁断技術で、手作りの名品を見るような感じを抱かせる。

 犠牲者の体に残されたバンドエイドで刑事の怒りを描き、レールのそばに転がる「偽のナイキシューズ」から刑事の無力感を鮮やかに要約する話術は、物語に対する演出家の掌握力をそのまま見せてくれる。


 都会から派遣されたソ刑事(金サンギョン扮す)と田舍刑事の朴刑事(宋康昊(ソン・ガンホ)扮す)が相棒になるこの映画の基本フレームは、大まかに言って、二人がチームを成して劇を導く刑事物バディ・ムービーの典型に当てはまるようだ。

 しかし、すでにデビュー作の『フランダースの犬』で互いに異質な要素をぶつからせ、生のアイロニーをもたらす優れた才能があることを証明した監督は、この映画でもジャンルの枠を軽く飛び越える。

 大都市で起こりそうな連続殺人事件が静かな農村で起こり、いわゆる「科学捜査」と「直感捜査」に代弁される二人の刑事のスタイルは、犠牲者の数が増えるほど差が縮まっていく。

 捜査が膠着状態に陥ると、刑事たちはお守りを買ってきたり、犯人が無毛症だと信じて男湯を探す寸劇を演じる。物騒な内容にも関わらず、始終輝くこの映画の一級のユーモアは、登場人物の深刻で真剣な行動と、これを見守りながら笑いを噴き出す観客との間で炸裂する。

 叙情が怪奇的で異常なものと肩を並べ、爆笑の末に怒りが込み上げてくるこの映画の奇妙な風景に泣いたり笑ったりする点は、「考える者にはすべてのものが喜劇で、感じる者にはすべてのものが悲劇」と言った詩人、ロルカの言葉が自然に思い出される。

 無能な監督の下にも良い俳優はいるが、有能な監督の下に駄目な俳優はいない。主役から脇役まで、バランスよく配役された演技者たちは、アンサンブルとは何かを教えてくれる。

 宋康昊はこの映画で笑いと悲しみの両端を担う。言葉を詰まらせたり、顔を真っ赤にしなくても力強く観客を自分のカラーに染める宋康昊のユーモアは、すでにキャラクターに余すところなく吹き込まれている。

 そして同時に「黄金のジャンパー」がよく似合う映画の中の宋康昊の姿は、死体を用水路から発見して唾を吐く最初の場面から、納得のいかない複雑な表情で正面を見つめる最後の場面まで、不可解な人生の悲しさをそのまま体現する。

 『生活の発見』で深い印象を残した金サンギョンは、後半部分からの完璧な役のなりきりで、演技に対する信頼を抱かせる。

 足取りが軽く、ジャブも鋭いが、物語を見つめる監督の眼差しは真剣そのものだ。

 『殺人の追憶』は、いまだ捕まっていない殺人犯に向けた怒りのメッセージが込められた映画で、自分を守ってくれなかった社会で最後を迎えなければならなかった犠牲者たちに対する悲しみを表現した映画だが、同時に人生の無気力さと時間の無意志に対してメッセージを込めた映画でもある。それなりに生きてきたが、振り返ってみれば格好悪くて滑稽な過去に対する労しく虚しい感情を表した言葉だ。

 映画のクライマックスで、十数年の歳月が経ち、再び朴刑事が事件現場を訪れた時、近くにいた少女が数日前にもある人が訪ねてきたと教えてくれる。朴刑事が「どんな人だった?」と聞くと少女は「普通の人だった」と答えた。

 『殺人の追憶』は普通に暮らし平凡に生きる人々の一人一人が心に抱くわだかまりに着眼した映画だ。監督は憐れみ混じりのため息でそのわだかまりに触れることで、自身の映画的なわだかまりを遂に解いた。

李東振(イ・ドンジン)記者
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