チャン・ジュンファン監督の『地球を守れ』は、奇妙な魅力がある作品です。化学会社の社長を宇宙人だと思い込んで拉致する男の話を扱ったおかしな設定の中に、ユーモア一杯の笑いと憐れみが共存しているからです。
非一般的な感性を土台にしていますが、忠武路(チュンムロ/韓国映画の中心地)的なシステムで完成されたこの作品は、恐らく時間が経てば韓国映画界で非常に独特な位置を占めることになるでしょう。
ところでこの映画の韓国語タイトルの『地球を守れ』と、英語タイトルの『Save The Green Planet(地球を救え)』を比較すると、一つだけ単語に違いがあるのが分かります。
それは「守る」と「救う」という動詞の違いです。似たような意味でありながら、二つの文化圏がまったく違った動詞を使っているという事実が意味するものは、いったい何でしょうか。
「守る」は「失わないように注意する」あるいは「そのまま続けて維持する」を意味しますね。地球が(救わなければならないのではなく)「守らなければならない」と思う時、その文化圏は今の世の中でまだ暮していけるという楽観的な世界観を持っているようです。
なぜなら、そこには世の中がこのままずっと維持するだけの何かを持っており、また、失ってはいけない何かを持っているという考えが根底にあるからです。
一方の「救え」という単語は、「悪い境遇から抜け出させること」を意味します。すなわち地球が(守らなければならないのではなく)、「救わなければならない」と信じる文化圏は、悲観的な世界認識を持っているようです。
その「悪い境遇」が何であれ、一刻も早く世の中をそこから救い出さなければならないのなら、すでにその世界は到底住むことのできない場所を意味するからです。
(恐らく儒教的な世界観に影響された)「守らなければならない文化圏」は、保守的で、秩序を強調する社会である他ありません。そして省察を土台にしたこの集団は、危険は「外」に、解決策は「内」に存在すると考えるでしょう。
これに反して(恐らくキリスト教的世界観に影響された)「救わなければならない文化圏」は、進歩的であり、変化を強調する社会と言えます。もちろん罪の意識を土台にしたこの文化圏の人々は正反対に、危険は「内」に、解決策は「外」にあると判断します。
自らを守らなければならないと「信じる」集団と、救わなければならないと「信じる」集団のうち、どちらが最も切迫しているでしょうか。
自暴自棄に陥って自爆する場合を除くとしたら、やはり後者の行動が切迫しているのではないでしょうか。
水にまだ溺れていないと思う人が注意することと、すでに水に溺れてしまったと思っている人が溺れ死にしないように慌てる位の雲泥の差があるからです。
近世以降、東洋と西洋の間の不幸だった歴史的な関係は、もしかすると、こうした世界観の差に起因しているのかも知れません。