金基徳(キム・ギドク)監督は、枠にとらわれないストーリーを刺激的な話法で描く。そうした個性は新作『海岸線』(22日公開)でも惜しみなく発揮されている。
海岸警戒所のカン上等兵(張東健(チャン・ドンゴン)扮す)が、ある日の晩、海岸で恋人と情事を交わす村の青年をスパイと見間違えて射殺する。罪悪感に震える兵士に対して部隊は“模範的警戒勤務”の功労に賞すと、彼は発狂してしまう。村の青年が射殺された際に一緒にいた女性も発狂し、それに加え兵士らに暴行されてしまう。
南北の分断と対峙のために駐屯する部隊の周辺で起こったこの悲劇を見ていると、「南北が分断され、互いに銃を向け合いながらにらみ合っていること自体が狂ったことではないか」という監督の意図が読める。
では果たして『海岸線』は南北の分断が生んだ悲劇を形象化した映画なのだろうか。劇的な事件の数々が映画に緊張感を与えており、その上、私たちすべてに関係する分断の現実を扱っているため、スクリーンから一瞬たりとも目を離せない切迫した雰囲気が『海岸線』には確かにある。スター張東健の変身振りも目を引く。
しかし、それと同時にこの映画は多少の混乱も感じさせる。映画序盤に起こる事件の必然的な因果関係の環が結ばれているかのように見せかけた映画は、発狂したカン上等兵が部隊で孤立してからは、徐々に非現実的に描写される。
暴力を振るわれた女性の兄が、刺身包丁を持って部隊に殴り込みに来たと思えば、追い詰められた指揮官がその男性が目の前にいるにも関わらず、部下に仕打ちを与えるほどだ。
個人的で内密なテーマを扱った映画ではなく、最も冷酷な現実と向き合う映画が、非現実的な話法を駆使することによって映画の焦点を濁している。発狂してしまった被害者の女性が水槽に入っていく異常なクライマックスシーンになれば、映画の狙いが分断の非人間性なのか、人間の野獣性なのか、ポイントが何なのか分からなくなる。
部隊の塀の外では被害者の家族たちが声を張り上げているのに、このデモ隊を背景にして表彰式を行うなど、意図が見え透いた演劇舞台のような場面構成は、こうしたテーマの場合には説得力に欠ける。