「誰かが必ずやらなければいけない話でした。皆さんに知ってほしいという思いがあって、それで勇気を出しました」
子役というだけでは説明が足りない、女優キム・セロンの言葉だ。キム・セロンは最近、ソウル市鍾路区三清洞のカフェ「SLOW PARK」で映画『雪道』(イ・ナジョン監督)のインタビューに臨み、責任感があったと話した。
3月1日公開の映画『雪道』は、植民地時代末期の1940年代を舞台にした作品。キム..
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「誰かが必ずやらなければいけない話でした。皆さんに知ってほしいという思いがあって、それで勇気を出しました」
子役というだけでは説明が足りない、女優キム・セロンの言葉だ。キム・セロンは最近、ソウル市鍾路区三清洞のカフェ「SLOW PARK」で映画『雪道』(イ・ナジョン監督)のインタビューに臨み、責任感があったと話した。
3月1日公開の映画『雪道』は、植民地時代末期の1940年代を舞台にした作品。キム・セロンは、同じ年ごろのキム・ヒャンギと共に、従軍慰安婦の女性を演じた。第37回バンフ・ワールドメディア・フェスティバル最優秀賞(カナダ)、第24回金鶏百花奨・最優秀作品賞(中国)など、海外で作品性を認められた本作を、キム・セロンは自ら選んだ。自身も、本作で金鶏百花奨・主演女優賞に輝いた。
「作品は全て両親、会社と相談して私が決めますが、『雪道』は特にそうでした。両親も、周囲の人々も、誰も快い返事はしませんでした。周りに引っ張られると骨が折れるかもしれないので、『自分の気持ちの通りにやるべき』と言ってもらえました。その話を聞いて、悩みもしましたが、考えれば考えるほど『やるべき』という気持ちしかありませんでしたね」
劇中キム・セロンが演じる「ヨンエ」は、慰安所に連れていかれるまでは、苦労もなく育った裕福な家の末娘だった。学校の先生を夢見て日本への留学を準備していたが、父親には独立運動の前歴があり、少女の夢は打ち砕かれた。日本軍に抵抗もしてみたが、弱々しい少女の身では、まるでどうにもならない。顔と体にできた傷は、無残に踏みにじられた、その時代を生きた少女たちの悲劇的な人生を示している。この作品は、2年前にまずドラマとして紹介された。キム・セロンが16歳のときだった。未成年の身では容易でない作品だったはずだが、大人の俳優にも劣らない口ぶりで出演について語り、インタビューを引っ張った。語りがうまいという誉め言葉に、キム・セロンは首を横に振った。
「そんなことはないです。作品でインタビューをすることになったら、どういう質問が来るか予想して、あらかじめ練習しておくんです。話をするときに、失敗したくないですから。完璧主義的な性格だからでしょう」
キム・セロンは謙遜して、こう言って笑ったが、徹底した性格のおかげで認められる俳優になった。天才は1%の才能と99%の努力からなる、という言葉の通り、「演技の天才」と呼ばれるキム・セロンも、普段から多くの作品を見て練習を怠らない。気に入った作品の台本を手に入れて一人で演じたり、映画やドラマのビデオ・オン・デマンド(VOD。有料動画配信)を、音声を消して流し、劇中の人物とせりふをやりとりしたりといったことをよくやる。おかげで、絶えずラブコールを受けるのはもちろん、世界的な授賞式に足を運ぶことができた。10歳のころから現在まで、演技に飽きることはなかったかと気になった。ちょうど、感情の起伏が最も激しい年ごろでもある。
「小さいころから演技をしてきましたが、幸いにもこれまで飽きることはなかったと思います。飽きるより、作品が終わると空虚感が大きいですね。空っぽの心を埋めようと、以前はあれこれ勉強もしましたが、あるとき、それでも解消されなくなってしまいました。そのときは、逆にもっと作品をやりたいという気持ちがあります」
キム・セロンの話を聞きながら、「生まれながらの俳優」という思いで笑いが漏れた。慰安婦少女像問題で韓日関係がますます悪化しつつある昨今。『雪道』が観客の目にどう映ればいいと思うか尋ねた。
「映画を撮っていて、私の方が慰められた作品ですね。小さな関心と努力が集まれば、大きな力になることができるじゃないですか。それで、被害者のおばあさんにとって慰めになることができればいいと思い、こういう機会を通して、慰安婦問題や歴史についてもあらためて考えてみることができればいいと思います」
パク・ミエ記者
edaily/朝鮮日報日本語版
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