2000年から2年間隔で『悪夢』(日本タイトル『友引忌-ともびき-』)、『フォン』(同『ボイス』)、『分身娑婆』を送り出したアン・ビョンギ監督は、韓国映画界にとって意味ある存在だ。ひとつのジャンルにこだわるのも簡単ではないが、日常の中から恐怖のモチーフを見つけ出す点でアン監督の映画は注目に値する。
亡霊が携帯電話を通じて蔓延するという設定の『フォン』は『リング』ネ来最もショッキングな恐怖の感..
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2000年から2年間隔で『悪夢』(日本タイトル『友引忌-ともびき-』)、『フォン』(同『ボイス』)、『分身娑婆』を送り出したアン・ビョンギ監督は、韓国映画界にとって意味ある存在だ。ひとつのジャンルにこだわるのも簡単ではないが、日常の中から恐怖のモチーフを見つけ出す点でアン監督の映画は注目に値する。
亡霊が携帯電話を通じて蔓延するという設定の『フォン』は『リング』ネ来最もショッキングな恐怖の感染体の“発明”として認めていいだろう。女子学生の密かな遊びである亡霊の召喚術「分身娑婆」に着眼したのも悪くなかった。
しかしここまで。演出者の「労苦」を差し引いて見るなら、アン監督の『分身娑婆』は前作『フォン』に比べて恐怖の新鮮度と強さにおいて劣る。
亡霊を召喚し、後に亡霊に体を奪われる少女 ユジン(イ・セウン)、ユジンを密かに守ろうとする謎に包まれた教師 ウンジュ(キム・ギュリ)、そして少女たちを殺す「29番 キム・インスク」(イ・ユリ)の現世と過去での関係がストーリーの中核だ。
閉鎖的な村で性的に搾取されていた母子を「近代化」という名分で殺した村人たちの陰気な過去を描くのに多くの時間を割き、「恨みを晴らす」というモチーフが映画の中軸になってしまった。母子の霊が恨みを晴らすという結末は、新世代の亡霊に対する執着である「分身娑婆」を新たに解釈できなかった証拠だ。
人々を殺す「火」の恐怖にひねった意味を与えることができなかったのも惜しまれる。火は単に「殺傷道具」に見えるだけで、欲望の象徴としての役割を果たせなかった。
前作との無理やりとも取れる「関係」を設定するエピローグを見終えると、監督には新たな恐怖を体得する時間が必要だと気づかされる。5日公開。
パク・ウンジュ記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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