2014年5月10日はソ・ジョンヒ(55)の人生が大きく変わった日だ。それまでは人気お笑いタレント、ソ・セウォン(61)の妻で、トップモデルとして生きてきた。彼女は番組で主婦としての日常生活や幸せについて語り、それを書きつづった本も5冊出版していた。ところがこの日、自宅エレベーターに取り付けられていた防犯カメラ映像のソ・ジョンヒは、これまで本や番組で語っていた状況とは全く違うものだった。マスコミに公開された映像のソ・ジョンヒは、無惨にもソ・セウォンに暴力を振るわれていた。声一つ出せないまま、夫に暴力を振るわれていたのだ。後に、ソ・ジョンヒは「私の30年間の結婚生活は完ぺきさを装った芝居であり、それまで事実を口にできなかったほど苦痛に耐えていた」と認めた。15年8月、彼女は長期間にわたる訴訟の末、協議離婚した。

 今月初めソ・ジョンヒは新たに本を出版した。タイトルは『ジョンヒ』(アルテ発行)だ。漢字で書けば『貞姫』。つまり、自身の名前を冠したこの本には離婚後、京畿道南楊州市内のマンションで実母と一緒に暮らしながら日常を取り戻したことや、カウンセリング治療を受けて向き合った子どものころの心の傷、息をつくこともできなかった結婚生活の闇から抜け出したいと考えていた1人の女性の告白が詰まっている。先月9日にソウル市江南区内のカフェで会ったソ・ジョンヒは「あの件があってから、毎朝早く起きて日記を書きました。この本は、その日記から選びに選んで出版したもの」と言った。その口元はかさついていた。

■私は偽りの城に閉じ込められていた

-本のタイトルをあえて『ジョンヒ』としたのは、芝居のような結婚で忘れていた自分を取り戻して生きるという意味ですか?

「そうです。それまで自分が誰なのか分からずに生きてきたので、これからは分かっていなければと思って。もうこれ以上、他人や環境を言い訳にしないで、自分の名前で生きていくという意味でもあります」

-それでは、これまではどんな言い訳を付けながら自分自身を見つめることを避けてきたのですか?

「『あなたは結婚した女なのよ』です。『夫が、子がいるのよ』って。『誰が何と言おうと家庭があるんだから、それを守って生きなければならないのよ』って。『それを望んでいようと、いまいと、家庭を作ったのだから最後まで壊さないように生きなければならない』と信じていました。おそらく、あの事件(エレベーターでの暴行)がなければ、私は今でもそのように生きていたでしょう」

-お子さん2人が既に成人しているのにですか?

「以前は、その事実から目をそらしていました。逆説的ですが、エレベーター事件、あの最悪の日のおかげで目が覚めたのです。実は、すぐにあの城から抜け出すことができたはずだということに気付いたのです。そこから出れば、こんなにも思いっきり、楽に呼吸して生きられるということに…」

 高校3年生だった1980年の冬。米国で暮らしていた叔母から移民の誘いが来た。学校を退学してソウル市鍾路区にあった英語学校に入った。授業を終えて友人と道を歩いていた時、ある男が「私は写真家だ。モデルをしてみる気はない?」と言ってきた。軽い気持ちでスタジオに行って撮影に臨んだ。初めて受けた化粧品の広告写真のオーディションは落ちたが、その後すぐにある菓子メーカーの広告モデルに選ばれた。その広告撮影現場で会った男性モデルがソ・セウォンだった。撮影のため訪れた済州島で彼に性的暴行を受けた。彼はソ・ジョンヒの母親のもとを訪れて「ジョンヒと暮らしたい」と言った。3年間の同棲生活に続いて32年間の結婚生活の始まりだった。

-結婚しなければよかったのでは?

「20歳でした。何も知らなかったんです。ただ生きなければならないと思っていました」

 ソ・ジョンヒは本に、同棲を始めたころのことを書いている。そのころ、ソ・セウォンの実家の家族たちは何かあると「(ソ・セウォンの)将来を台無しするな」と怒り、2人の家に突然来たので、恐ろしくて震えながら台所の流し台のそばやクローゼットの中に隠れて眠ったことがよくあったという。落ち着いてきたのは、長女ドンジュさんを出産して以降のことだった。

-お子さん2人を育てていた時は幸せだったということですか?

「幸せだと信じていたんです。事実、その枠の中だけは私自身、完ぺきにしようと思っていました。ご飯一つとっても、ただ普通に炊いたりしない。必ずご飯のおこげを作って、スンニュン(食後に飲むと体にいいとされる、おこげにお湯を注いだもの)も用意したし、子どもの服の用意もスキンケアもきちんとしました。その瞬間だけはすべてのことを忘れて没頭できました。私の子ども、私の家庭…。私が世話をしているんだという事実だけで、心が満たされました」

 しかし、本によると、ソ・ジョンヒはソ・セウォンの浮気を知っても知らないふりをしたり、時にソ・セウォンに暴力を振るわれ、暴言を浴びられたりした時は「メメント・モリ」(Memento mori=死を忘れるな、という意味。この本では「どうせ死ぬことになるんだから忘れれば済む、という意味」)と心の中で叫んだそうだ。

-それはすぐ通報すべきだったのでは? 知らないふりをしたり、目をつぶってやったり、暴力を容認したりしたことが、問題をいっそう大きくしたのでは?

「そうなんです。近しい人たちはみんな私にそう言いいました(笑)。しかも、牧師さんたちまで…」。しばらく言葉が途切れた。「それでも、その当時はもっと重要なことがあると思っていました。『私は母親だから、もう少し辛抱しなければならない』って。後になって気付いたんです。愛のない男と暮らしながら守ろうとした家庭は、砂の城よりも意味がなかったことに。そのすべてがただの虚像だったと」

■掘っ立て小屋、父親、そして貧しさ

 離婚後、ソ・ジョンヒは1年半ほど神経精神科に通ってカウンセリング治療を受けた。相談の過程はつらく、苦痛だった。ソ・ジョンヒは「何でも早く、しっかりやりたいと考える私の性分が、カウンセリング治療では足を引っ張ったんです」と話す。

-本にも書いてありますね。何につけても人一倍頑張り、練習し、訓練して学ぼうとしたそうですね。料理もコーディネートも本を書くことも…。

「学校で勉強できなかったという心残りがあるからです。高校の卒業証書ももらえなかったし、突然、誰かの妻として生きることになったんですから。いつもコンプレックスがありました。卒業はできませんでしたが、その分、自分の感覚や見よう見まねで乗り越えなければならないと…(笑)。1着の服をきれいに着るため事前に数十着試着したり、一度レストランで食事をしたら、この店ではどうやってこの料理を作っているのかと目で盗んだりしました。だから、カウンセリング治療時でさえ『早く治そう』と闘志を燃やしていました。お医者さんは『もう気を張るのはやめなさい』って」

 ソ・ジョンヒの父親は、彼女が5歳の時に心臓発作で亡くなった。1人残された母親は米軍基地内で働き、ソウル市竜山区普光洞の掘っ立て小屋で4人きょうだいを育てた。上から2人目だったソ・ジョンヒは祖母の手で育てられた。きょうだいの世話で疲れていた祖母はきょうだいの中でも特に病弱て食が細かったソ・ジョンヒをしばしばたたいた。「お願いだから何も言わなくてもさっさと食べてちょうだい」が祖母の口癖だったという。

-衣食住にこだわりがあったのは、こうした経験があったからですか?

「そうだと思います。『どうでもいいから』『さっさと』…そういうのがすごくイヤでした。何か1つ置くにしても、きちんときれいに置きたかったんです。実は今でもテーブルクロスや花一輪にこだわっています。善かれあしかれ、32年間の結婚生活で衣食住と育児にだけこだわって生きてきたので、結局それは私の一部ではないでしょうか。『適当に』『何でもいいから』という具合にはできないんです。誰も見ていない時でさえ、ボディーラインが出ないゆったりとした服を着ます。細い体がコンプレックスなんです。家の中はいつもきれいにしなければならないし。変でも仕方ないですね。これも私だということを認めなければ」

-お父さんに関する記憶は全くないのですか?

「ありません。病気がちだった私の口に時々栄養剤を入れてくれたこと以外は…。一時、父を恨んでいた時期がありました。父が早く死んだからく、私はちゃんとした男と付き合えなかったのではないかと…。今はそういう考え方はしないようにしています。今この瞬間、気持ちが軽いだけでも恵まれていると思います」

 昨年3月からソ・ジョンヒは国際大学工業デザイン科の外来教授として空間デザインの講義を行っている。教えるのは1・2年生だ。授業する時のソ・ジョンヒはかなり大胆だ。カラーボードを一度に広げてどの色が合うかみんなで討論したり、自ら作ったインテリアボードを手で一つ一つ外しながら空間構成法を説明したりすることもある。ソ・ジョンヒは「ずっと他人の目を気にしながら生きてきて、体当たりで覚えた知識。授業する時だけは誰かに気を使わずに、学生たちにすべてを教えたいです」と語った。

-主婦ソ・ジョンヒ、母ソ・ジョンヒ、妻ソ・ジョンヒではなく、人間としてですか?

「はい。一生もがきながら、自分のものを作ろうとした1人の人間、自分の人生とは何かをやっと体得し始めた人間、そういう人間が学生の前に立っているんです(笑)」

■今が青春

 ソ・ジョンヒは先日、番組で出演者たちと一緒に鬱陵島に行った。島の大自然を前にして、彼女は文字通り魂が抜けたようになり、歓喜した。その屈託のない表現を笑顔で受け止めた人もいたし、戸惑った人もいた。ソ・ジョンヒ自身もそれはよく分かっていた。

-子どものようですね。

「子ども時代を飛ばしてしまいましたから(笑)。性に閉じ込められてしまい、青春や愛が何なのか、ピクニックが何なのか、何一つちゃんと知らなかったんです。今やっと知り始めたところ。50歳をかなり過ぎて、世間のことは全部イヤだという人もいるでしょうが、私は違います。どこに行ってもワクワクするし、新鮮なんです。それを受け入れようと目を大きく見開き、脈拍が速くなるのは抑えられません。そんな私の姿はやや不自然に見えることもあるでしょう。でも、私はこの時期を絶対に過ごさなければならないです。飛ばしてしまった私の20歳・私の青春を今からでも味わわなければ」

-また誰かを愛する用意はできていますか?

 ソ・ジョンヒは顔を上げた。「もちろんです。そうでなければ大人になれませんから」

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