『ディープ・ブルー・ナイト』『鯨とり -コレサニャン-』などの作品で、1980年代に韓国の映画界のけん引役となったペ・チャンホ監督(62)が、地下鉄のホームから線路に転落し、軽傷を負った。

 ソウル水西警察署と消防当局によると、ペ監督は1日午前6時ごろ、地下鉄盆唐線ハンティ駅(ソウル市江南区大峙洞)の往十里方面行きホームから線路に転落した。ペ監督が転落した後、すぐに列車が進入してきたが、ペ監督は上下線の線路の間にある安全空間に退避したため、顔や首などに軽いすり傷を負うだけで済んだ。事故が発生したハンティ駅には、転落を防止するホームドアは設置されていなかった。

 ペ監督がこの日、事故にあった経緯については、食い違った主張が出ている。警察は、ペ監督が最初の事情聴取で「映画のシナリオを作っているうちに強迫観念にさいなまれ、睡眠障害やうつ病の症状も表れ、発作的に線路に飛び降りたようだ」と話した、と発表した。

 ところがこの日、ペ監督の見舞いに行ったイ・チャンホ監督はメディアに対し「ペ監督は不眠症に苦しみ、意識がもうろうとした状態で、足を踏み外して線路に転落したと話した」と語った。

 ペ監督の事故のニュースが伝わり、映画界には衝撃が走った。ペ監督が飛び込み自殺を図ったのではないかとの見方が広がったことで、うつ病に苦しんだ末、2010年に自殺したクァク・チギュン監督を思い出した人が少なくなかった。

 29歳のとき、初めて演出を手掛けた『コバン村の人々』(1982年)で大鐘賞と百想芸術大賞、韓国映画評論家協会賞の新人監督賞を受賞し、華々しくデビューしたペ監督は、『赤道の花』(83年)では当時の韓国映画界になかった演出力を見せた。さらに『鯨とり -コレサニャン-』(84年)、『ディープ・ブルー・ナイト』(85年)、『わが青春の甘き日々』(87年)など、立て続けにヒット作を出し、「韓国のスピルバーグ」ともてはやされた。

 ところが、90年代に入ると興行成績が落ち込み、野心を持って制作した『黒水仙』(2001年)もヒットせず、いつしか人々から忘れ去られるようになった。09年に『旅行』を発表した後は情報も途絶えていたが、最近新たな作品のシナリオを書き上げ、制作者や投資家を求めていたという。90年代以来、ストーリーやキャラクターの誇張、歪曲(わいきょく)を拒否し、「スター俳優を使おう」という投資家の提案も拒否してきたペ監督は『情』(99年)や『道』(2004年)を独立映画(製作会社が大手映画配給会社を通さず、直接映画館に売り込んだ映画)として制作したが、観客に注目されることはなかった。

 ペ監督は延世大学経営学科を卒業後、現代総合商社に入社したが、映画監督になる夢を捨て切れず退社し、映画の演出を手掛けた。2004年には建国大学映画学科の新設と同時に教授となったが、わずか4年で退職した。

 最近、ペ監督と食事を共にしたことがあるという映画監督は「あまり話をしなかったが、制作者が見つからなかったからなのか、表情は暗かった」と話した。

 一方、イ・チャンホ監督は「1カ月ほど前に会ったときでも、おかしな点は全くなかった。英国に留学し帰国した娘の話もして、終始明るく楽しそうな表情だった」と話した。

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