太白山や小白山といった名山のふもとに当たる慶尚北道北部。山や渓谷など見事な景観が見られるこの地には、われわれの祖先たちが自然と一体となって学問を究めた書院が散在している。

 とりわけこの地域には、韓国最初の書院といわれる永州の紹修書院をはじめ、最も韓国的な文化を感じられる韓国5大書院がある。今年初めに国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産暫定一覧表への登載が確定した書院を、実際に訪れてみた。

 まず書院とは、朝鮮王朝時代に人材を育てるため全国各地に建てられた私設教育機関のことを指すが、現在に至るまで祭祀(さいし)儀礼や社会教育など書院本来の機能を果たしており、韓国固有の文化遺産といえる。

 慶尚北道の書院ならではの優秀さを確認するため最初に向かったのは、安東の屏山書院。この書院は西ガイ・柳成竜(リュ・ソンリョン)の学問と業績をたたえるために建てられたもので、1868年に大院君(朝鮮王朝第26代王高宗の父)による書院撤廃令が下された際に生き残った全国47の書院の一つだ。とりわけこの書院は、書院としてだけでなく、韓国の建築史をひもとく上でも重要な遺跡に数えられる。

 河回村の周囲を流れる洛東江に沿って歩いていくと、この屏山書院に着く。書院はまるで1枚の水墨画のようだ。前方には洛東江、川の向こうには低い山が屏風のように広がっている。

 書院の入り口に立つと、高い階段の上に晩対楼が見える。ここは200人余りを収容できる大講堂で、ほかの書院にはない独特の構造をしており、全国の書院のうち最も有名な建物に挙げられる。

 次に向かったのは、朝鮮王朝時代の学者、李彦迪(イ・オンジョク)をたたえ、後進を教育するために設立された慶州の玉山書院だ。この書院は、書院の機能のうち、書籍を保管・編さんする機能を最も明確に示していることで知られる。

 玉山書院の最大の特徴は、全国の書院のうち最も多くの書籍を有しているという点だ。壬辰倭乱(じんしんわらん=文禄・慶長の役)と韓国戦争(朝鮮戦争)の際には、付近の住民たちの努力によって、金富軾(キム・ブシク)の「三国史記」の原本9冊をはじめ、李彦迪の執筆した晦斉先生文集、正徳癸酉司馬榜目、海東名蹟2冊、そのほか千冊以上の文集など重要な文化財を守ることができた。

 この書院は屏山書院と異なり、建築学的に大きな意味はないものの、空間的な配置が際立っている。大半の建物が日当たりのよい南向きになっている一方、中心の建物は周辺の景観との調和を成すよう西向きに建てられている。

 書院の入り口を過ぎると、儒生たちの休憩スペースに当たる無辺楼が見えてくる。建物は2階建てで、全体が真っ赤に塗られており、楼閣に上がると、長い歳月を経て古くなった建物の気品を全身で感じることができる。

 楼閣の前には玉山書院の中心となる建物、求仁堂が建っている。求仁堂は書院内のさまざまな催しや儒生たちの会合、学問の討論の場として利用された。ここに掲げられた「玉山書院」の扁額(へんがく)は、秋史・金正喜(キム・ジョンヒ)による作品だという。

 求仁堂には独特な点がある。それは廊下の両側の部屋に窓がないことだ。周囲に気を取られず学問だけに集中するために、このように設計されたのだという。

 書院の建物と同様、周囲の風景も一見の価値がある。書院の外には竜湫の滝や渓谷があるが、渓谷の丸木橋に沿って上に向かうと、独楽塔と浄恵寺址十三層石塔が見渡せる。

 ほかに世界文化遺産に搭載されている慶尚北道の書院としては、安東の陶山書院と永州の紹修書院がある。永州の紹修書院は、朝鮮王朝時代初の私額書院で、私学教育機関として広く知られている。朝鮮の中宗37年に豊基郡主の周世鵬(チュ・セボン)が学者アン・ヒャンをたたえるために建立した。

 安東の陶山書院は、退渓・李滉(イ・ファン)の書院として有名だ。退渓が後進を育成するために1574年に陶山書堂と隴雲精舍を建立し、退渓の死後は、弟子や儒生たちが退渓を忍んで現在の建物を建て、嶺南学派の巨大な学脈を受け継いだ。扁額の字は、当代きっての書家、韓石峰(ハン・ソクポン)が書いたという。

 一方、慶北の書院は朝鮮王朝時代の典型的な私学教育機関で、周辺の景観と調和する韓国特有の空間づくりと建築様式を守っており、祭祀儀礼や学問、社会教育など書院本来の機能を現在に至るまで遂行し続けている文化遺産だ。

 また、書院は書籍や版本の流通・拡大で中枢的な役割を果たし、特に祭祀儀式は東アジアにある書院関連遺産のうち最も完璧な形態で伝承されている。

■ユネスコ世界遺産に搭載された書院

慶州・玉山書院:慶尚北道慶州市安康邑玉山里7
安東・屏山書院:慶尚北道安東市豊川面屏山里30
安東・陶山書院:慶尚北道安東市陶山面土渓里680
永州・紹修書院:慶尚北道永州市順興面内竹里151-2

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