スターインタビュー
Rain「貧しかった子ども時代…今、夢はすべて叶った」
‐中学2年生のころから街頭でダンスを踊っていたといいますが、ご両親はとても心配されたのでは?
「親は誰でも自分の子どもが勉強がよくできて、いい大学に入ってもらいたいと願うものです。それなのに、たった1人の息子は家にも帰ってこないし、耳にピアスはするし…とても心配をかけたと思っています。ある日、父が中華料理の店に僕を連れて行って、酒をついでくれたんです。中学2年のときでした。父は『この酒を飲んだ瞬間から、お前はもう自由に酒を飲んでもいい。だが、絶対に“道”と“徳”から外れるようなことをしてはいけない。たばこも吸ってはだめだ。その約束を守るなら、これから俺はお前が酒を飲んでも、いくら遅く帰ってきても文句は言わない』と言いました。正直言ってうれしかったです。同じ年ごろの友達は酒を飲んだことが父親にばれて、めちゃくちゃに殴られていましたから。だからそのとき、僕はその杯につがれた酒を飲み、『分かりました』と答えました。その後、先輩にどんなに勧められてもたばこだけは絶対に吸いませんでしたし、酒は飲みましたが、道と徳に外れるような悪さはせず、他人に迷惑をかけるようなこともしませんでした」
中学生のころから酒を飲んだというRainの告白を聞いていると、子を持つ親としては微妙な気分だった。
「こんな話をするのは恥ずかしいのですが、爆弾酒(幾つかの種類の酒を交ぜたもの)をよく飲みました。40杯まで飲んだことがあります。最近はさすがに忙しいので、親しい友人と会ったときだけしか飲めません。2カ月に1度くらいですね」
‐どうしてお父様は中学生の息子に酒を飲んでもいいと言ったと思いますか?
「僕が進みたいと思っている道を理解してくれたのだと思います。父は事業に失敗し、商売もうまく行きませんでした。当時、僕の家族にとって、どうやって空腹を満たすかが1番の心配事でした。幼かったけれど、両親がどんなに苦しい生活をしていたかは十分に分かっていました。そのとき、『俺が大きくなったら、親に食べるための心配はさせないようにしよう。俺の妻と子どもは経済的に苦しませないようにしよう』と誓いました。でも母は僕が高校3年のときに亡くなりました」
‐お母様のことをよく思い出しますか?
Rainの目に涙が浮かんだ。
「僕は子どものころから飛行機に乗るのが夢でした。今では飛行機に嫌というほど乗っているのですが、母を1度乗せてあげたかったと思います。僕たち家族は1度もマイホームというものを持ったことがなかったんです。僕が家を買ったとき、1番心に浮かんだのは母でした。母が生きていたら『うちの息子が家を買ってくれた』と言って大喜びするだろうなと思うと辛かったです。母は本当に苦労ばかりして死んでしまいました」
‐ワールドスターと呼ばれていますが、それは昨年のニューヨーク公演のためだと思いますか?
「ニューヨーク公演も理由のひとつだけれど、タイム誌で『最も影響力のある100人』に選ばれたことも大きいと思います。でも“ワールドスター”という名称は、大衆やメディアの『そうなって欲しい』という希望が込められたニックネームのようなもので、実際に僕はワールドスターではありません。そんな風に呼ばれるのはまだ恥ずかしい。でもワールドスターと呼ばれることにより、新しい目標ができたのは事実です。僕はまだ正式に米国に進出したわけではありません。アルバムも発売していないし、映画にも出演していない。僕が本当に努力をして、今年か来年ごろ、米国市場で大きな成果を上げられたら、そのときはワールドスターと呼んで欲しいと思っています。それが僕の1番の目標です」
‐中国や東南アジアだけではなく、米国でも認められると思いますか?
「僕が米国市場で、韓国も米国と同じくらいのことができるということを見せてやりたいんです。韓国にも文化があるということを証明したい。武器を使うことよりもっと恐ろしいのは人間の精神と文化を支配することだと思っています。それから、僕自身のモットーは『失敗しても成功のように』です。たとえ僕が米国で失敗したとしても、それは完全な失敗ではないということです。失敗した場合、その失敗の理由を後輩たちに教えたい。そして後輩たちは僕の経験を土台にまた挑戦して欲しいと思っています」
「アジアを回っていると、韓国ぐらい歌のうまい国はないと感じます。韓国の先祖は民謡を作り出しましたし、特有ののどを震わせる歌唱法も生み出しています。演歌も実はこの歌唱法が生かされた歌です。だから米国のR&Bのような曲をうまく歌いこなすことができるのです。僕が韓国で習った歌い方とスタイルで米国最高のプロデューサーと一緒に仕事をすれば、韓国と米国のノウハウが合体し、シナジー効果が生まれるのではないかと思っています」
‐外国の公演では英語で歌うのではないですか?
「外国で歌うときは英語半分、韓国語半分です。中国語や日本語で歌うこともあります」
‐言葉に対するコンプレックスはありますか?
「学生のころ、ほかの科目より、英語や中国語、日本語など、語学を一生懸命勉強しておくべきだったと後悔しています。言葉ができないと、最終的にその国で成功することはできません。さまざまな交流が必要なのに、インタビューひとつまともに答えられませんから。僕は今、英語に力を入れて勉強しています」
‐米国に生まれていればよかったと思ったことはありますか?
「米国で生まれたとしても、米国のどこに生まれたかによって違います。ハーレムやものすごい金持ちの家に生まれたとすれば、米国に生まれたとしても音楽などできません。ダンスの魅力が何であるかも分からなかったでしょう。僕は今も自分がこうしているのは本当に運がよく、恵まれたことだと十分に分かっています。幼いころ、人にサインをしてあげること、テレビに出ることが夢だったのですが、その夢がすべて叶いました」