一世を風靡(ふうび)したビッグスターあるいはメガトン級のヒット作は、偶然が重なり、原案とは少々違った形で大ヒットを果たすケースが多い。ソテジを「文化大統領」とまで呼ばせたソテジ・ワ・アイドゥルのデビュー曲「僕は知ってる」も、最初の計画や曲風とは違った形で大ヒットに至った例のひとつだ。

 もともとソテジはソロ歌手としてデビューする予定だった。音楽的な感覚が並外れていたソテジは、当初から韓国の音楽市場では珍しかったラップを導入した。ロッククループ「シナウィ」でベースギターを弾いていたことを考えれば、ラップにダンスという大変身を試みたことになる。

 そのようにしてデビューを準備していたソテジは、音楽は既に作られていたが、これと似合うダンスの振り付けが決まっていなかった。ソテジは韓国最高の振付師からダンスを習う計画を立て、人の紹介でヤン・ヒョンソクと知り合った。パク・ナムジョンのバックダンサーとして活躍していたヤン・ヒョンソクは、当時、韓国で最も踊れるダンサーだとされていた。




 ソテジの頼みを受け、ヤン・ヒョンソクはソテジにダンスの指導をすることにしたが、「僕は知ってる」という曲を聴いた後、「曲は素晴らしい。でもこの曲は1人で歌うよりもチームを組んで歌った方がずっといいだろう」とアドバイスした。

 ソテジは音楽的なセンスの似ているヤン・ヒョンソクのアドバイスを受け入れ、チームを結成することにし、ヤン・ヒョンソクにチーム合流の誘いをかけた。これにイ・ジュノが加わり、韓国歌謡界の異端児であり一斉を風靡したソテジ・ワ・アイドゥルが誕生することになったのだ。

 ヤン・ヒョンソクはチーム結成が決まった後、ソテジに再び「歌にメロディーがなければ韓国では通用しない。ラップにメロディーが必要だ。メロディーがなければ踊れない」と強く主張した。

 ソテジが最初に作った「僕は知ってる」は「僕は知ってる/この夜が過ぎて過ぎれば…」で始まるラップが終わった後、すぐに「おお君よ、行かないで/本当に行ってしまうのかい/おお君よ、行かないで/僕は今、泣いているよ」という歌が始まり、またすぐに「僕は知ってる/君の後姿見送り/最後のキスで悲しいさよなら/行くんだね」というラップが始まるようになっていた。

 ヤン・ヒョンソクの主張に、ソテジは導入部のラップに続き、「僕は本当に君、君だけを愛してる/僕にこんな悲しみ残す君よ/どうか行かないで/僕には君がすべて」という部分のAメロディーを作って挿入することにした。

 当初の計画通り、ソテジがソロでデビューし、Aメロディーのないまま「僕は知ってる」を発表していたらどんな結果だったろうか。果たして「文化大統領」の称号を得ることができただろうか。実力ある人にはよい友が必要だという教訓だ。

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