映画『グエムル-漢江の怪物-』は韓国で上映される前からその作品性が認められていた。『殺人の記憶』のポン・ジュノ監督の作品である上に、カンヌ映画祭でスタンディングオベーションを受けたという報道のためだ。

 このような広報戦略は日本でも同じだった。しかし日本人はこれに懐疑的に反応した。受賞どころかコンペティション部門にも入らなかった作品に「カンヌ云々(うんぬん)とはナンセンスだ」という反応だった。

 カンヌで批判の声が挙がるのは、ほとんどがコンペティション部門の話題作だ。よく分からない映画はむしろ好意的に反応するのが慣例だ。ある程度の作品ならば、スタンディングオベーションを受けるということだ。

 このような日本のネチズンの低評価と興行失敗が映画のクオリティーに対する疑問・懐疑へと発展している。グエムルの成功を導いた「集団主義マーケティング」と同様に不思議な現象だ。


 大衆文化評論家のイ・ムンウォン氏は「スクリーン独占、記録強迫症をあおったメディア、集団主義マーケティングを自ら実行したネチズン、海外での評価をそのまま映画のクオリティーの“保証手形”として活用した広報戦略など、すべての要素が『グエムル』を歴代1位に祭り上げたのは事実」としながらも、「同作に対する韓国の評価と観客の反応はほとんどが好意的であったという点を忘れてはならない」と指摘した。同作の成功をスクリーン独占、メディア、インターネット、映画会社の広報に騙されたケースと見てはならないということだ。

 イ氏は同作を基本的に韓国の批評家が支持し、韓国の観客が検証した映画であると規定した。「海外での失敗と海外ネチズンの批判により、映画自体の質的レベルに対する懐疑が発生していること、それこそが自分の信念を持たない事大主義だ。海外の評価によってマーケティングに火がついた映画が、海外での評価によって今度は映画自体への懐疑へと変化していく様子は、韓国映画界の事大主義のまん延を証明する代表的な事例として記憶されるだろう」と批判した。

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