36歳の若手作家チョン・ソンテの視線は、60年前の“敗戦”と光復(クァンボク、日本の植民地支配から解放された日)前後に焦点を当てた。

 しかしチョン・ソンテが掘り起こした過去史は、“被害者”韓国と“加害者”日本をはっきり2つに分けることはできなかった。
植民地朝鮮を女性化、他者化する慣習的視線とも相反する内容だ。

 長編小説『理髪師の女』(チャンヘ出版)でチョン・ソンテがひも解いたテーマは、60年間韓国の地で生きてきた日本人女性たちの話だ。「彼女たちは芙蓉会という会を結成しており、この小説を書くために数年前に取材した時には、会員が400人を超えていました。南大門(ナムデムン)市場と東大門(トンデムン)市場に身を隠して暮らす人がたくさんいました」。太平洋戦争が終わり、「植民地朝鮮」から日本人が引き揚げる際、夫が韓国人であったためにこの地に残らざるを得なかった日本人女性が少なくなかった。惨めで、悲惨だったが、苦しみを訴える手段すらなかった日本人妻たちの60年間の人生は、韓国近代史が生んだもうひとつの悲劇だ。

 従軍慰安婦の女性に関する小説も書いたことがない状態で、在韓日本人妻の小説に取りかかるのはどうかと負担が重くのしかかった。

 1999年、2004年の2度にわたり、日本人妻たちを取材したチョン・ソンテは「愛国主義と自民族中心主義、国家と個人、過去と現在がひとところに渦巻く、不可解な体験をした」とし、「民族主義も他者と対話する方式の一つだ…自意識が作用しない民族主義は怪物だ」(「あとがき」で)と作家としての自意識を語っている。

 小説の主人公は山田英子という日本人女性。芸者になるため6年間の修行を積んでいた。

 修行を1年残したある日、18の舞妓(芸者見習い)の身でありながら、朝鮮人青年キム・テシクに出会い、恋に落ちた。その結果、テシクの子どもを身ごもったまま、1945年玄界灘を渡る。しかし、英子はキム・テシクに捨てられ、身を寄せる場がなくなり、京城(現在のソウル)の高級料亭北靑樓で三味線を弾きながら息子を育てる。理髪師になり、世運商店街の片隅で30年余り暮らしてきた英子は、故郷同然の全羅(チョルラ)南道のある塩田へ行き、寂しく息を引き取る。英子をとりまく朝鮮(韓国)の男たち、女たち、そして息子が編み出す話は植民地が残したもうひとつの記録だ。

 チョン・ソンテは「日本人妻たちの人生は、一様に不幸だった」とし「韓国の夫と子ども、ひいては日本の実家からも捨てられる人が大半だった」と証言した。

 今となっては80を過ぎ、「落ち葉のごとく、命が尽きたにもかかわらず」今もなお住民登録、戸籍、国籍などが整理されていない者も多いということを取材するうちに知った。

 「二重国籍を取得するための縁故者もなく、月20万ウォンの生活扶助を受けることもできません。このため、今でも暖のない部屋で過ごすお年寄りがいます」

ホーム TOP