日本の北野武監督は、基本的に「暴力」と「笑い」は近い存在だと考えている。「人がバナナの皮に滑って転んだら本人にとっては悲劇だが、周りの人間にとっては笑いになる。笑いとは常にこうして悪魔のように暴力的な姿に変わる」(2002年インタビュー)と語ったこともある。

 『菊次郎の夏』ではコメディに暴力的要素を加えた北野監督が、今度は暴力にコメディの要素を加えた。30日に公開される最新作『座頭市』で北野監督は、流血劇とユーモアのクロスオーバーとはどういうものかを、絶妙なセンスで見せてくれる。

 映画の表面上は確かに時代劇だ。19世紀頃であろうか?

 ヤクザが仕切るある田舍町に正体不明の盲目の居合いの達人・座頭市(ビートたけし)が現われる。座頭市は父の仇を討とうとする旅芸者姉妹の味方につき、悪党を驚くべき刀技で見事に成敗する。そして再び忽然と姿を消す。

 座頭市は、日本人にとっては勝新太郎の主演で知られる時代劇の主人公だ。北野監督の『座頭市』もスピード感や迫力、悲壮美といった面で娯楽活劇としての遜色はまったくない。青い着物に金髪頭。盲人の居合いの達人・座頭市は常に無表情だ。しかし、対決の瞬間に座頭市は、うつむいたまま電光石火のように刀を抜いて1ミリの誤差もなく相手を斬る。

 黒澤明監督の『七人の侍』へのオマージュに満ちた雨の中での血闘シーン。

 無表情な剣客の刀から噴水のように飛び散る血のスローモーションは、それ自体が視覚芸術とも言える。

 しかし、北野監督の『座頭市』の本当の楽しさは、非凡なフュージョンスタイルにある。

 観客は悲壮な流血劇と笑いがどのように同居するのかを体験する。

 座頭市の前で、ある悪党が格好をつけて刀を抜くが、隣にいた部下を斬ってしまう。スクリーンで悲鳴が上がれば上がるほど、客席からは爆笑が巻き起こる。

 示し合わせていたのに、行き違いで親分が部下に殴られたりもする。飛び散る肉片を見て完全に血の気が引いてしまった観客は、顔に血の気が戻る前に爆笑している自分に驚く。観客の心の奥底からじわじわと滲み出てくる悪魔性を見て微笑む監督の姿が浮かぶ。

 リズム感に溢れたストーリー展開も観る者をスクリーンへと引き込む。ギャグやアクションのすべてがタイミングよくリズミカルだ。映画の随所に登場する対決シーンに、監督はさまざまなリズムを取り入れた。

 それだけでなく、監督はこの流血劇の至るところに、意外にも『NANTA』や『STOMP』を連想させるリズムパフォーマンスを導入した。4人の農民が鍬や竹を叩く音から、大工たちが金槌を叩く音へと変奏させていくリズムパフォーマンスには、体が自然と動き出すようだ。

 一見、無茶のように見えるこのパフォーマンスは、『座頭市』がリズムと動き、暴力とユーモアのクロスオーバーの饗宴であることを実感させる。このすべてのリズムをまとめるかのように、30人が力のダンス、ダンスの力を思う存分に発揮するクライマックスのタップダンスは圧巻の一言だ。

 悲壮美と壮絶な暴力、ユーモアを独創的なスタイルで融合させ、観客の目を2時間も釘付けにさせる監督は、北野武以外にはいないだろう。一本の刀で秋風に散る落葉のように相手を斬る侍の殺伐とした空気や、閉じた両目のまぶたの上に絵の具で目玉を描いて「その目消せないのか」とつっこまれる滑稽さ。

 劇中を縦横無尽に行き交うこの中年男、北野武の不可解な魅力が映画『座頭市』の面白さそのものだ。なぜ面白いかと考える前に、ともかく面白いのだ。

 こうした理由から『座頭市』は、2003年ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞したという評価にとどまらず、北野映画としては異例の観客動員数200万人を昨年日本で突破する大ヒット作となった。

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