エンタメニュース
林権澤監督が見た『野人時代』ブーム
1930~40年代、ソウル鐘路(チョンロ)を制した金斗漢(キム・ドゥハン)など武闘の世界を描いたSBSテレビのドラマ『野人時代』の熱風が今なお吹き荒れている。一体、『野人時代』の何が、この時代の韓国人をそれほどまでも熱狂させるのか。
90年代の初め、金斗漢を主人公にした『将軍の息子』3部作を制作、ヒットさせ、金斗漢時代の武闘物語を前もって実証してみせた林権澤(イム・グォンテク)監督が『野人時代』ブームを見て感じたことをまとめた。/編集者
私は『将軍の息子』を撮影していた際、この映画がそれほどまでヒットするとは思わなかった。しかし、映画が公開された初日から、映画館の前は観客で長蛇の列ができ、1作だけでやめるつもりだったのが、パート3まで立て続けにヒットを記録した。
そして、10年あまりが過ぎた今、『野人時代』という金斗漢時代のアクションドラマに幼稚園児や小学生までもが熱狂していると聞いた。視聴率が50%を上回っているというのだから、これは到底簡単には説明でいない現象だといえよう。
なぜ、このように金斗漢時代のアクションに過剰な反応を見せるのだろうか。『将軍の息子』がヒットした際、私はじっくり自分の映画を探っている間、自分でも気付かなかったことが隠されていることを知った。まず、男たちの魅力だ。『将軍の息子』を撮影していた時、製作者が私にこう言った。「監督、今は男がいない時代なんだから、男とはなにか、見せてやりましょうよ」。
今、私はこの言葉に全的に共感する。やくざは社会悪であるが、それを社会悪だと決め付けてしまわない人も多いのである。当時、やくざたちは服従すべき人に対しては徹底して服従し、勝負の世界では、野卑なことなどせず、正々堂々と戦った。
しかし、今は経済、政治、社会、どこからも正々堂々としたものを目にすることができない。文字通り、模範はなく、変節や裏切り、機会主義だけの世の中になってしまった。そんな中、男らしい美徳を持ったやくざドラマが登場したのだから、人々はそれほどまでも熱狂してしまうのだろう。
だが、さらに重要な理由がもう一つあると私は思う。アクションドラマに喝采を送って盛り上がるのは、一種の“フェスティバル”だと考える。今年6月に全国を沸かせたサッカー・ワールドカップの熱い応援と相通ずるものがある。韓国人は世界的に見てもお祭り好きが多い民族だ。おめでたいことがあれば歌って踊ってその場の雰囲気を楽しもうとする。ところが最近では都市型生活に移行しながら、こうした皆で楽しめるフェスティバルの空間が失われてしまった。
世の中に対して不満を感じる人は、長い歳月をかけてその不満が沈殿物のように積もり積もるが、そのはけ口がない。ワールドカップ開催中、韓国戦が行われるたびに昼夜を問わず光化門(クァンファムン)交差点に集まり声援を送った市民たちは、今まったく同じような理由で『野人時代』のようなドラマを見て興奮し、胸の内に溜まった沈殿物を分解してカタルシスを味わい、大規模で巨大なフェスティバルを行っている。
私たちが日常生活をしながらカタルシスを味わい、活力を取り戻すのは良いことだ。しかし、懸念されるべき点がないわけではない。いくら良質でハイレベルなアクションドラマでも、根本的には“暴力を密かに正当化”させる副作用が避けられないためだ。「勧善懲悪」をいくら掲げても、観客は結局“暴力が与える快感”に酔い、正義のために暴力を使う人間に肩入れする。法や倫理、道徳ではない“力”で問題を解決することが正しいと認識してしまう。これが問題だ。
アクションドラマは世間に対してのフラストレーションを一時的に解消する役割は果たしてくれるが、こうした流れは“目障りな世間”を改善させるものではない。多くの市民たちが暴力を崇拝するようになれば、世の中はさらにストレスを感じるものとなるだろう。これがまさにジレンマだ。アクション映画がカタルシス以外にこの社会のために何を残すことができるか。私にとってもこの問題は相変らずの課題だ。
林権澤(イム・グォンテク)/映画監督