500年前の味と風景をたどる慶州「良洞村」

500年前の味と風景をたどる慶州「良洞村」

朝鮮時代、宮廷の外に100間以上ある家を建てられず…。

 壊して、はがして、直して…都会の風景は日に日に変わっていく。使い勝手が悪いからと言っては直し、古くなったからと言っては壊す毎日。しかもそこに暮らす人々の姿まで消えようとしているのが現状だ。その一方で長い間、伝統的な生活を大切にしてきた村もある。そうした村を訪ねてソウルから約350キロ離れた慶尚北道の慶州市に向かった。

 「慶州」と言えば10人中9人が仏国寺や雁鴨池など統一新羅時代の遺跡を思い出すだろう。だが、ここには朝鮮時代の生活がうかがえる観光スポットもある。それは国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に「韓国の歴史村」として登録された「良洞村」だ。

 良洞村は慶州市に属するが、距離的には浦項市に近い。浦項ICから兄山江方面に行くと、道路脇の良洞村の標識が目に入る。村に入ると雪倉山の丘陵に沿うように広がる家々が目に入る。「本当にここに21世紀の人々が住んでいるの?」。まるで映画『トンマッコルへようこそ』に出てくる村にタイムスリップしたよう。実はここは映画『我が心のオルガン』(1999年)、『酔画仙』(2002年)、『血の涙』(05年)などのロケ地としても有名だ。

 ソウルの南山韓屋村、慶尚北道安東市の河回村など、韓国には数多くの民俗村がある。しかし、良洞村のように約150軒のさまざまな家屋からなる村は珍しい。昔のままの姿が残っており、観光スポットと呼ばれるほかの民俗村とは違う印象だ。この村の家屋の位置を見ると、昔住んでいた人々の身分が推し量れる。宗家ほど高く、広い尾根に沿って両班のしきたりに従い家が並んでおり、下に行くに従って一般の人々の家屋が増えるのが分かる。

 ほかの家に比べ大きそうな、丘の上の家屋が目に入った。この建物は朝鮮時代の性理学者・李彦迪(イ・オンジョク)が当地の官吏だった時に母親の看病をするため建てた家で、「香壇」という。上から見ると「興」の字型の作りになっており、99間という規模を誇る。では、なぜ99間なのだろうか。

 朝鮮時代、宮廷の外にいる士大夫(官職を務める知識層)一族である「土豪(豪族)」の家は100間以上にできなかった。一説によると、100間ある家は宮廷内のみ建てられると決められ、それ以上の規模にすると謀反になったという。残念なことに火事で焼失し、現存しているのは56間だけだ。99間の家というのは、母屋・別棟・別堂・祠堂・あずまやといった建物の区切られた部屋や空間の数を合計したものだ。庶民の家が10間前後だったので、その規模の大きさが分かる。

 この村には紀元前4世紀以前に人が住み始めたと伝えられている。現在は、驪州李氏(驪州を発祥地とする李一族)や慶州孫氏の一族400世帯が村を守っている。

 村の真ん中を横切り流れる川と蓮池を渡り下村に入った。聖主峰には村人たちに読み書きを教えた寺子屋のような私塾「講学堂」があった。暑さをしのぐため中に入ってみた。良洞村にはこうした私塾が2カ所ある。1つは慶州孫氏の安楽亭、そしてもう1つが驪州李氏の講学党だ。だが、入口を抜けても門や壁は見当たらなかった。

 「この年寄りが作ったんだよ。ちょっと味をみてごらん」。70歳過ぎのおばあさんが1人で韓国の伝統菓子「薬菓」と韓国の甘酒「シッケ」を売っていた。一休みしようと思い、良洞村の北村が見下ろせる講学堂の床に座り、シッケを一口飲んだ。かつて庶民たちが学んだ建物で味わう薬菓やシッケは、夏休みに遊びに行った田舎の家で祖母が出してくれたのと同じ味がした。良洞村にはこのように薬菓・シッケ・おこしを売っている所がある。これらの材料となるピーナツ・シナモン・もち米などは村で採れたものだ。蓮の花の香りと同じくらい濃い伝統の香りに酔えるのがこの村の魅力だ。

 良洞村では事前に予約すれば案内人の解説を聞きながら村の隅々を見て回れる。下村・ムルボン谷・内谷・杜谷・香壇というコースで良洞の文化財を回るには半日では足りない。案内人のイ・ジヒュさんは「人が住んでいる家なので、あまり奥まで入り込んで見るのは失礼になります」とそっと教えてくれた。

500年前の味と風景をたどる慶州「良洞村」

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